例大祭祭文

-春季例大祭-

 

三重縣護國神社の春秋の例大祭では、戦没者遺族の代表が祭文を奏上する次第があります。

その一部をご紹介します。

祭文は「祭文」から始まるのが通例ですが、例外的に「祭詞」や「祭辞」、「追悼文」、「追悼のことば」等という文言から始まるもの、いきなり本文から始まるものがあります。尚、祭文の原文を尊重していますが、文意を損なう明らかな誤字については一部訂正しました。


 祭詞

戦后早や三十余年の歳月が夢のように過ぎ去りました。

遺児として育った私共青年部の者も今や家庭で或は、社会でその中核をなしそれぞれの分野で活動できる年になりました。

本日こゝに三重県護国神社春季慰霊祭が挙行せられるに当りこうして社前で親しくお会いできますことは、これひとえに祖国日本の為に散華された幾多英霊のご加護の賜ものであります。

私共の父達が一枚の赤紙で出征してから幾ばくか過ぎ、悲しい戦死の公報を手にし先の見通しさえたゝなくなったその日から老いの身に鞭打ち、まつわる幼な児をあやし乍ら家業を支え留守を守って下さった祖父母、この子が世間からうしろ指をさゝれぬよう、ひねくれた子にならないようにと或る時は父親代りとなり、またやさしい母として一人で二役も三役ものつとめを果たし、一生懸命はぐくんでくれた偉大な母のお蔭と感謝せずにはおられません。

昨年四月私は政府派遣の遺骨収集団の一員としてサイパン島へ参加させていたゞき、この目でこの足で当時の悲惨極りない現地の様相をつぶさに見聞することができました。

島を訪れた印象は、とてもとても四万を越す将兵が祖国の勝利を信じつゝ壮烈な戦死を遂げた島とは思えぬほど平和で美しい所でありました。

収集作業が進むにつれ或る場所では鉄かぶとをかぶったまゝ、銃をしっかりと手にしたまゝの恰好で幾体も幾体も折り重なって無造作に埋められたつわもの達が迎えを待ちわびたように姿を現わされ、山の岩蔭や大木の根方に身を寄せ敵の激しい十字砲火と戦いながら最后の命の綱とたのむ水のはいったビール壜や一升壜を胸に抱きついに力尽きて倒れられた英霊とお会いし、そここゝにある不気味な不発彈や激戦を物語るおびたゞしい彈痕を眼のあたりにして、云葉さえなく悲しい真実として認めぬわけにはゆきませんでした。

僅か二十日に足らぬ日程ながら身に迫る危険もなく順調な毎日ではありましたが、故郷を離れ生活環境が変りやゝもすると気弱になりくじけそうになることもありました。

でも厳しい軍律のもと砲煙弾雨の中を勇敢に戦われた英霊の御苦労は何千倍何万倍だったことでありましょう。

そして、祖国の栄光を念じつゝ犠牲となられたご遺骨を収容できたのは千百余体にものぼりました。また、本年三月には青年部主催による中部太平洋戦没者遺骨収集戦跡巡拝団として県内の五十名の方達と再びグアム・サイパンへ渡ることが出来ました。

我が息子が、夫が、父がそして兄弟が勇敢に戦った現地を見届け慰霊したいとの一心で参加された中には、八十才を越える方々もおられましたが、収集団の人達の手により集められた千五百余体ものご遺骨と対面し、又各島の慰霊碑や激戦地で心ゆくまで懷しい御霊と久しぶりに語らい、声に出して呼んだことのない父を思いきり呼び、まるで生きた人に出会ったかの如き幻覚に陷り、日程としては強行軍ではありましたが満足して無事帰国することができました。

今回の巡拝では、現地に先発され遺骨収集団のリーダーとして活躍下さった渡辺委員長、それに平素私共をご指導下さっている遺族会役員の皆様のお蔭で焼骨式・骨上げ式にも政府の団長より特にお許しをいたゞき参列する亊ができ、全員感激致しました。

祖国日本の平和と繁栄を信じて異郷の土となられた、み霊に申し上げます。あなた達の尊い犠牲は、今の日本に決して無駄にはなっていません。平和で経済的にも恵まれ、どちらかと云えばぜいたくすぎる程の豊かな国家として立派に実を結んでおります。私達は先の遺骨収集戦跡巡拝を通して、あなた方のご苦労、苦しい中勇敢に戦い、平和日本の礎となられた亊をよくよく知りました。

今だに各地で散乱し、迎えを待ちわびている御霊をお迎えすること、遺族がかゝえる今后の問題等を今は早や年老いた祖父母や母に代って私達青年部が、力を合せ出来得る限りの努力をすることが、あなた達に捧げられるせめてもの餞けと信じます。

英霊よ、どうかこの護国神社の森で安らかにお眠り下さい。そして私共をいついつまでも御加護下さい。

 

昭和五十四年四月二十一日

三重県遺族青年部代表

川瀬 敏之


 祭文

新緑の色増すすがすがしい季節のもと、本日こゝに春の慰霊祭を挙行せられるにあたり県下戦没者遺児を代表して、謹んで英霊に祭文を捧げます。

戦後、早や三十五年の歳月が経過いたしました。

激しかった戦争の後跡もなく、世界にも類をみないほど髙度成長を続け経済的にも文化的にも素晴しい発展を遂げて参りました。終戦の無残な状態から今日の日本を想像していたでしょうか。

戦争が始まると一枚の紙が今日は我が家に、明日は隣家に届き戦場に父や夫我が子を送り出さねばならなくなりました。

名誉なことでお国の為喜こんで命を捧げるつもりで出陣していきましたが、残された家族は心の中で無事を祈りつゝ見送ったのでした。

必勝の願いも空しく、次々に悲しい報せがもたらされ、変果てた姿となり白木の箱に収められ帰って参りました。遺骨とは名ばかりで、その多くは一片の板切に過ぎなかったのです。

母のもとへ悲しい報せがもたらされた時、私は生まれて一ヶ月になったばかりでした。

心のよりどころを失った母を扶け励しあうすべもなく、父の顔も知らない幼い私を抱え、母一人幾多の苦労をくぐりぬけ三十五年経ちました。

今日まで育てゝくれた母の愛に感謝の念でいっぱいです。父は、男なら末勝女ならばかつと名付けるようにとの願いを書き残し発っていきました。

現在、父の生きた歳月より多くの日々を幸せに送れること心から喜ぶと同時に、どんな些細なことでもよいから世の中の役に立つ人間になりたいと望んでいます。私だけでなく今日ここに御参列の多くの方々が同じような境遇の中で育ち、辛い思いや苦労をのりこえ、立派に社会人となり家庭を築き各分野で広く御活躍してみえることゝ思います。

昨年私はよい機会に惠れ、県下の遺族青年部の方々と沖縄の遺骨収集団に参加できました。私の父は沖縄阿嘉島で戦死しております。

ジャングルと化した人の目にふれない戦跡をたどり名誉の戦死をなされた英霊の遺骨を父のように思い、さぞかし淋しい思いで待ちのぞんでいたかと思うと申訳感慨無量でした。

戦後三十五年にも成ろうとするのに、いまだ数多くの英霊の遺骨が風雨にさらされ要塞やトーチカが、戦争当時そのまゝに放置され薬莢や弾丸があちこち散在し戦争の無残さを知らされ、後世二度と再びこのような悲しいことがないようにと希わずにはいられませんでした。御英霊の皆様なにとぞ安らかに御眠り下さい。

今日の平和と繁栄は、尊い生命の犠牲の上に築かれた賜であることを忘れず、親会婦人部と共に力を合わせ英霊に報いる様努力いたします。

最後になりましたが、ここに県知亊様始め御来賓方々各関係者の方々の御臨席を賜わり、この様な盛大な慰霊祭を執行して戴き厚く御礼申し上げます。

 

昭和五十五年四月二十二日

鳥羽市遺族青年部

八木 末勝


 祭詞

境内の桜も散り始め、若葉のみどりが日増しに美しく感じられます。陽春のよき日、三重県護国神社の御前に皆様と共に、かくも厳そかに春季慰霊大祭が執り行われるに当たり、遺族会青年部を代表して謹んで慰霊の誠を捧げることの出来ますことは、感激で一っぱいでございます。

お父さん、見て下さい。

もみじのような小さな手を振って、母の脊でお別れした私もこんなに大きくなりました。これもお父さんのご加護の賜と感謝いたします。

顧みますれば、一枚の赤い紙切れが、私達の人生を大きく変えてしまいました。あの痛ましい大戦からすでに三十六年の歳月が過ぎ去りましたが、遺族の悲しみは、うすれることなくご英霊のみ前に在りし日の面影を追い求め、新らたなる淚にくれて居ります。

皆様の尊い犠牲によって我が国は戦争のない平和な国になりました。しかしあの悲しみは、あまりにも深く永遠に忘れることが出来ません。私達は、遺児として母のか細い腕で育てられ、戦争の惨禍が終ったあとも、私どもの戦後は、苦しくも長い年月でありました。その中で母は、祖父母は又私達は、戦後の生活の苦しい戦いを生き抜いてまいったのです。

今ようやく私達も人並の生活を取り戻し、靖国の遺児と呼ばれた私達も父となり母となりました。人の子の親となった今 妻子を残して世を去った父の心情 夫に先立たれ 一人子ども達をかかえて生きた母の心中、そして手塩にかけたいとしい子を失った祖父母の悲嘆を改めて一しお深く思うのです。

戦没された皆様方は、その生命果てる一瞬まで最愛の妻と子、そして父母兄弟のことを想いつづけられたことでしょう。このみ前に立たづむ時、幼い日々の出来ごとが次々と脳りにうかんでまいります。

母が台所の片隅で仏壇の前で、声もなく泣いていた姿、町中がお祭りでにぎ合う中で友達がそのお父さんに手を引かれ、嬉しそうに、語りゆく姿を見て、どうして私には、お父さんがいないのと訳もわからず母を苦しめた幼い日々、物心ついてからの母と過した苦難の数々、この三十六年間父親さえいてくれたらと何度悔し淚を流したかわかりません。

その中で母達は、夫の唯一つの分身である我が子のために戦後の混乱期をたくましく生き抜き世間からうしろ指をさされぬようにと、或る時はきびしい父親代り、そして又或る時は、やさしい母として一人で二役も三役もの務めを果たし今日まで育んでくれました。今は、可愛い孫に取りかこまれて笑顔をやっと取り戻し一けん、しあわせそうな妻の皆様もその苦労のせいか、髪にめっきり白いものが多くなりました。

ご英霊の皆様 ごらん下さい。あなた方の父上が母上が妻の皆様も幼かった私達も一人前の社会人に成長し元気にこの御前に揃って居ります。どうか、心おきなく語り合って下さい。お前の分まで長きをしているよ、とあなた方の母上が呼びかけていられます。

子どもを一人前にさせて、貴方の分までりっぱに責任を果たしましたと、妻の皆様が報告していられます。どうか、一言よく頑張ったなあと、声をかけて頂きとうございます。

私は先般、父の亡くなりましたフィリッピンを始めてたずねることができました。三十五年振りの親子の対面を夢みて遠い異国の地に旅立つ私の胸は、不安と父に逢える喜こびとが交差して感激で一っぱいでした。父のぬくもりすら覚えていない私ですが、父に逢って母が今日まで頑張ってくれたことを思う存分報告し、こんなに大きくなりましたと力一っぱい叫んでこようと思いました。太陽の照りつけるマニラ空港に立った私は、今はこの島の土と肉になってしまった、父の声姿を求める気持で一っぱいでした。父の最後の地となった山に向って、お父さーんお父さーんと思いきりさけびました。父の姿は、見えませんでしたけれども、良く来た、と言ってくれ大きくなったなあと言ってくれる父の声を私は、三十五年ぶりに、この耳でしっかりと聞くことができました。父や夫や我が子がどんな所でどんな思いで亡くなっていったのか、その地点に一度はたたずみ、慰霊の誠をつくし、霊をこのなつかしい日本に持ちかえりたいと思うのは、全遺族の願いであると思います。また、私はフィリッピンに参って貧しくとも人の心を失っていない原住民の生活をこの目ではっきりと見ることが出来ました。日本軍の戦没者の慰霊碑を国をあげて手厚く守っていて下さる姿を見て言葉も通じない現地の人々の暖かい行動に頭の下る思いでいっぱいでした。

他国の方々でも、あんなに思って下さるのに、何故日本政府は、国の手で靖国神社をおまつりして頂くことが出来ないのか、公式参拝がなぜ実現できないのでしょうか。このさびしい日本の現状を考えます時、父達は、いったい誰れのために散っていったのかと疑わずにはいられないさびしい思いをいたしたのは、私一人ではありませんでした。ご英霊の皆さん、あなた方が直接声を出してさけぶことが出来ないのが全くはがゆいことでしょう。

こうした問題解決に私達青年部は、年老いた祖父母や母に代って 力を合せ出来る限りの努力をすることが、あなた達ご英霊に捧げるはなむけと信じます。どうか、地下のご英霊の皆様、私達の運動が一日も早く実現致しますよう陰ながらお助け下さるようお願い申上げます。ご英霊の皆さん、安らかにお眠り下さい。

お別れに、戦没者の方々のご冥福をお祈り申上げ謹んで祭詞と致します。

 

昭和五十六年四月二十一日

三重県遺族会青年部

代表 小瀬古 月子


 追悼の辞

遠い異国の広野に遥か南海の孤島で戦は利あらず、凄惨苛烈を極めた戦場に、又職域に於て祖国の安泰と平和を念じつつ愛しい家族の名を呼びながら尊い生命を捧げられましたご英霊の皆さん、謹んで追悼の辞を申し上げます。

瞼の父、幼くして死の公報に接した時、母子共々奈落の底に突き落され悲しくも苦しい生活が始まったのです。汗と涙の母の顔、朝は朝星、夜は夜星、黙々と働く後姿、熊手の様な手、子供の成長を唯一心の糧としてその手で育った私達、あらゆる面に於て忍耐強くそして積極的に行動できるように育ててくれた母。数年前すでに戦後生れの国民は総人口の半数を超へ世代の交代が進む中で、平和への決意は風化しそうな気もします。しかし、世代は交代しても歴史と伝統に培ちかわれた美しい大和魂は不変であると信じます。

我国の礎となられたご英霊の崇高な精神は、子々孫々まで語り継がれるものと確信致します。

私は職場のご理解あるご協力により、一昨年三月と本年二月に延五十日間に亘り、マリアナ諸島のサイパン・テニアン両島に遺骨収集に参加致しました。

断崖絶壁が多く、無数の洞穴度々のスコール熱帯特有の樹木が生い茂るジャングル奥深くに苔むす屍、血と汗と涙を流しての作業でした。崖をよじ登り洞穴にたどり着いた時、火炎放射器で焼かれ眞黒になった内部に、六柱又七柱と寄り添う様な姿を見た時、憤りと空しさで足が震へ涙が止りませんでした。

収集団の入域不許可問題等で一段と厳しくなる同地域での作業でしたが、千九十五柱と多くのご遺骨を収集し私達の胸に抱れて祖国に奉還されました。

四十年振り無言の帰国、長い歳月さぞやご無念だったことでしょう。

祖国も皆様のご加護により経済大国として立派に繁栄致しました。

併しながら、靖国神社国家護持と公式参拜は今尚実現致していません。公式参拜について政府は憲法上疑義があると言う態度は誠に遺憾であります。政府首脳が外国を訪問すれば戦没者墓地や霊場にお参りするのが国際儀礼となっており、それを実行しています。

国の政治形態の如何にかかわらず、これは現代世界各国首脳の誰もが行っている姿なのです。

それなのに首相や閣僚が靖国神社に、参拜の時は私人としての参拜なのです。

又、世界各国には無名戦士の墓が祭られています。

イギリスではロンドンのホワイトホールに、フランスではパリの凱旋門、そこには永遠の燈火が燃へています。

アメリカではワシントン郊外アーリントン墓地、ここでは兵士が銃を肩に晴雨を問わず、昼も夜も戦友の警護に当っています。にもかかわらず靖国神社国家護持は実現していません。

内外情勢厳しい折、私達青年部は目的達成も前途多難ではありますが、部員の力を結集し問題解決に邁進する覚悟であります。

戦爭がもたらす惨めさ悲しさをこの身で味わいました私達は、世界の恒久平和に向って努力する決意でいます。

護国の御魂よ、安らかにお眠りあらんことをお祈り申し上げます。

 

昭和五十七年四月二十二日

一志郡嬉野町

田中 明


 祭詞

本年は史上まれな豪雪に見舞はれ、桜前線の北上もおくれ、今やっと万開の花に包まれました。御造営もなり、木の香床しき三重県護国神社の御前に、多数の御来賓の御臨席の許、県下の遺族一同集い、かくも荘厳なる春の慰霊祭を斉行されますに当り、遺族青年部を代表して、謹しんで英霊の御前に敬弔の誠を捧げます。

顧りみますれば、あの痛々しい大戦から三十九年の歳月が流れました。この間、我が国は著しい発展を遂げ、平和と繁栄が築かれました事は、これ偏に戦没者の皆様方の只一途に祖国繁栄を念じ国の礎となられた英霊の尊い犠牲の賜でありますからして、厳かに祭られた祭壇の前に額き目をとぢ、当時を忍びます時、万感胸に迫り、生きて見た事もなき父、手のぬくもりさへ感じた事のない在りし日の父の姿が彷彿として浮かんでまいります。

私達は、あの戦争の痛ましい苦しみを乗り越え、乗り越え、やっと今日に到り子を持つ親としての成長を遂げさせて頂きました。これも皆蔭からの英霊の御加護の賜と深く感謝いたしております。英霊の皆様には最愛の親、妻、子を残して征かれる時、二度と逢うすべもなき事と知りつヽ戦地へ行かれる時は、さぞかし後髪を引かれる思いで一杯であっただろうと子の親となり、今つくづく英霊の皆様方の御気持がひしひしと実感として胸痛む思いでございます。

残された私達も母と共々苦難の途いばらの途をたどりました。幼き頃の私達は、父亡き為の悲しき無念さの数々を味い、今なお胸裡に深く刻み込まれております。父亡き為ほしい物も買って貰へず、悔しい事も度々でしたが、それにも増して買い与へられなかった母の苦しみは心の痛みは、如何ばかりであっただろうと当時を思い、淚する日もあります。父亡き為進学も就職も思いにまかせず悔しい時には、「お父様を国に捧げたのに、なぜこんな苦労をせねばならぬのか」といきどおりを感ずる一面、私は靖国の子だ、英霊の子だ、くじけてはならない、靖国の父に申訳ないと心に鞭打ち苦難を乗り切ってまいりました。そして、せめて我が子や孫に、この苦しみや悲しみを味ははせてはならないと心に誓いました。

戦争の悲惨さを吾々身を以って訴へ続け、戦争のない平和日本を築く事が吾々遺児に課せられた使命であると思います。

そして、英霊のこの偉大な御功績を後世に残し子孫に伝へるのが私達の務と思います。

遺族会も三十九年の年輪と共に老化し、英霊の皆様方のお父様お母様もだんだんと亡くなられ英霊の御そばに行かれた数もだんだんふえつヽあります。

又、生きんが爲、私達を育てんが爲、青春を無にしてがむしゃらに生きぬいた雄々しい妻達も寄る年波に逆へず、頭には霜を置き、足腰の痛みを訴へる老人の域に達しました。今後の遺族会、私達青年部が背負って行く覚悟でございます。戦後三十九年たった今なお、異郷の山野に野ざらしになっていられる英霊はさぞかし故郷を忍び、早く故里の帰還を待ちわびていられる事でしょう。

私達青年部は、遺骨収集に戦跡巡拝に参加して一柱残さず英霊を故郷へ御むかいせねばならぬと思います。

次に私達念願の靖国神社国家護持公式参拝のいまだ実現せない事は、私達遺族に取り大そう残念な事であり、英霊に対して誠に申訳ない事と思っていられる事と存じます。

然し、自民党は四月十三日の総務会で首相、閣僚の靖国神社公式参拝を合憲とする見解を正式決定し、その後、中曽根首相に同見解を提出したとの事で公式参拝実現に向って一歩前進した事と思います。英霊の皆様方、何卒一日も早く実現する様、靖国神社の森から又、護国神社の宮から御力添の程御願い申上ます。

又、平素は、三重県御当局や関係各位、又、地区の役員様や皆々様から御手厚い慰霊の行事を行って頂き、御髙配、御支援を賜っております事は遺族一同心より感謝申上げる次第でございます。

英霊の皆様、一命を国家に捧げられ、その肉体は土と化せられましたが、み霊は永久に日本国民の心の中に生き続けていられます。どうか、どうか御心安らかに御鎮まり下さい。

終りに、み霊の御冥福を御祈りして祭詞といたします。

 

昭和五十九年四月二十一日

三重県遺族会青年部

代表 田中 徹


 祭文

陽春のこのよき日、三重県護国神社の御前に御多忙の中多数の御来賓各位の御臨席を仰ぎ、県下の遺族の皆様と共にかくも荘厳に春季慰霊大祭が執り行われるに当り、遺族会青年部を代表して謹んで感謝の誠を捧げます。あの痛しい敗戦からすでに三十九年目を迎え、我が国は目ざましい成長と発展を遂げ、平和と繁栄が築かれましたことは一重に身をもって国のいしづえとなられた御英霊の尊い犠牲の賜物でございます。

戦没された皆様方は、祖国のため両親や兄弟と離れ最愛の妻や子を残し、戦場へ向われ尊い御命を捧げられたことを思うと万感胸に迫り痛恨のきわみでございます。

私の祖母は、父をふくめ三人の息子をこの太平洋戦争で亡くしております。一番下の叔父は海軍飛行兵でした。祖母は飛行栈が通るたびに、あれが息子の乘っている飛行栈かと自宅の屋根に上り飛行栈が見えなくなるまで日の丸の旗をふっていたそうです。その叔父も九州の空でB29の攻撃をうけ、終戦の一週間前に帰らぬ人となりました。若干十九才の年でした。私も子を持つ親の身となって祖母の気持が痛い程わかります。母も戦中戦後の苦しい時代を生きてまいりました。

乳のみ児を背に十何キロもの道をリヤカーをひっぱって田舎へ疎開した翌日、津の空襲を知り急いで帰ってみるとあたり一面焼野原。それにつヾき父の悲報を受け茫然とした母の姿。その後の食糧難の時代、子どもたちだけにはひもじい思いをさせまいとただひたすらに頑張ってくれました。少年時代にぎあう祭りにお父さんと手をつないで楽しげな友人の姿を見るにつけ、兵隊姿の父の写真にそっとお父さんと呼んでみました。淋しい思いは一度や二度ではありません。

就職問題でも片親の悲哀を感じました。私達遺児も母親との苦しい生活からそれぞれ子を持つ親となりましたが、父たちが築いてくれました今日の平和と繁栄をいつまでも守り続けて行かなければなりません。

三重県遺族会青年部は、靖国神社公式参拝ならびに国家護持の実現の運動、永年の懸案であった戦没者遺児に対する国家処遇の実現、政府の実施する遺骨収集亊業等は私達に課せられた重要な使命であり、更に率先参加して亊業の推進に当り尚一層の努力を重ねる事を誓います。

戦争がもたらす惨さ悲しさをこの体で味わい尽くした私達は、永劫の平和にむかって進む決意であります。又この事を次の世代へ伝えていく事も私達の大きな使命です。

御英霊のみなさん、平和のいしづえとして末永く日本の平和をお守りください。そして私共をいついつまでも御加護くださいますことをおねがい申し上げ、謹んで祭文といたします

 

昭和五十九年四月二十二日

三重県遺族会青年部

代表 久世 正勝


 祭辞

祖国の安泰と存亡を双肩に荷い、曩の大戰におきましては炎熱はけしき南海のはてに、或は厳寒身をさす北辺の地に、或は本土の辺地に親のもとを離れ妻子を残し国難に散ってゆかれた御英霊の皆様、本日ここに三重県護国神社春季慰霊大祭か挙行されるにあたり、謹しんて哀悼の誠を捧け慰霊の言葉を申し上けます。

顧りみますれは、苛烈を極めた曩の大戰か終結いたしましてから早くも四十有餘年の歳月を經過いたしましたか今日茲に、苦難に滿ちた親達の往時を偲ふ時、感慨今尚胸につまる思いかします。

特にあの激しかつた戰において、祖国の平和を祈り肉親の幸せに想いを馳せつヽ、戰火に倒れ、戰後望郷の想い断ちかたいまヽはるか異境の地に亡くなられたみ霊を想ふ時、痛恨の情胸に迫るを禁し得ません。

祖国に為に身命を捧けられた戰歿諸英霊の崇高なる精神こそ、とこしえに九段の森に語り伝えられなけれはならないものてあります。しかし、私共多年の念願てあります靖国神社の国家護持すら実現を見す、公式参拜においては五十九年我々同志の靖国神社社頭五十時間におよふ断食祈願の甲斐あつてか六十年公式参拜か行なわれたものヽ、近隣諸国えの配慮から取り止めとなつてしましました。洵に残念てなりません。しかし、過日行なわれました靖国問題岩手訴訟におきましては、盛岡地裁は違法てないとの判例を示されました事は洵に心強く感する次第てこさいます。

国家のため一身を捧けた英霊を国家かお祭りするのか当然てあると考へ、皆様方の暖かい御支援とこ理解を戴き、一日も早く諸勇士の御霊か安らかにお鎭まり戴くため、今後も我々か努力していかなけれはならないと思っております。

我か国も戰後幾多の困難を克服し、經済的に繁栄すると共に国際的にも確固たる地位を確立することか出來ましたか、昨今の内外情勢は依然として厳しいものかあります。国際面ては米ソ間の動きに見られる東西関係の打開への動きかある一方、中東紛爭はいまたに續いているのてあります。經済面ては保護貿易主義の台頭を押さへ、インフレなき持續的成長を續ける方向か示されつヽあります。

国内的には急速に進む人口の高齢化や社会の成熟化、高度情報化社会の到來なと我々の意識や社会構造は、大きな轉換期を迎へているのてあります。そして、今や国民は物的な豊かさのみてなく、ゆとりと安らきといつた心の豊かさを求め、潤いある生活環境作りにつとめなけれはならないと思います。

この蔭には、こうした戰歿者方々の尊い犠牲かあつたことを忘れてはならないのてす。私達は帰らさる英霊の犠牲を無にしない爲めにも、先の大戰から学ひとつた教訓を生かし、世界平和と我か国の發展のため、今後更に一層の努力を傾注することこそ、残された者の責務てあると共に末永く後世に語り継くへき事をお誓い申し上けます。

終りに臨み、諸英霊の御冥福を御祈り申し上けますと共に、我々の行く末に一層の御加護を賜ります事を御願い申し上けます。

 

昭和六十二年四月廿一日

名張市遺族会青壮年部

山本 芳明


今私は、護国の御社の社頭に立ち、あなた方のはかり知れぬ哀しみと慟哭の前で何ら為す術を知らず、たヾ深く頭を垂れることしかできぬことに遣りどころのない憤を覚え、新たな感慨にあついものが込み上げてくるのを禁じ得ません。尊い生命を意義あるものとして投げ出さざるを得なかった御英霊を前にして、私達生きとし生きる者は何と幸な日々を送っていることでしょうか。此の幸な日々を想う時、私はあなた方の微笑とその厚い眼差を今一度甦らすことのできぬまヽ、たヾ情念の思いに噎ぶだけが精一杯なのです。祖国永遠の平和と繁栄を願いつヽ国に殉じられた、あなた方の崇髙な精神に報いる術もなく安穏な生活の彼方に追い遣って、今日に至っていることに腹立たしさを混じえた恥しさを覚えざるを得ません。今靜かに瞼を閉じて往時を偲びますとき、おたがいに、子と呼び、父と呼び交した記憶とてございませんが、異郷の地に在る長い歳月の想い出話が聞こえてまいります。昭和十五年四月、咲きほこる桜の花とは裏腹に、私達父と子が永遠に共に活らせる事のなかった、あの朝のことは今も鮮明に此の脳裏に刻み込まれております。

此の半世紀に渡る歳月の一ツ一ツを語り合う術を知りませんが、求めること、甘えることしか出来なかった私達、子の成長を糧にたヾひたすら耐えて来た母。朝目ざめますと母の姿はすでになく、その床のぬくもりの中にもぐり込んだことも幾度か、又寒空の星を眺め乍ら兄弟三人身を寄せ合って、その帰りをまちくたびれて、そのまヽねこんだ事もよく子は父の背を見て育つとか申します。私達にとって母の背は、父そのもでした。

見てやって下さい、その母達がかっての塗炭の労苦の数々をその深いしわの一すじ一すじに秘そませて、今、靜かに老いてゆきます。此の母達の残された余生を安らかに見守って下さい。

愛する肉親の名を叫び若くして、その理念を異郷の地、その瓦礫の中に消さヾるを得なかったあなた方、この茫々とした歴史の中で何とつらい思いをなされたことでしょう。

私達が果してあなた方のその勇気に恥ずることのない努力と行動を全うできるかどうか、非力さゆえにいさヽかの不安もございますが、どうか私達の指針にかなうべくいつまでも見守っていて下さい。あなた方の厳しい眼差しが、私達の心に直の平和と愛の何たるかを植え付ける時その時こそ、あなた方の永劫にして不滅の安らぎがあらうと信じます。

今、価値ある平和が私達の眼前にありその価値を私達は、見失ないがちになります。しかし、あなた方の痛苦な叫びに耳を傾け祖国に殉じた御英霊の尊い生命を想う時、私達は決してこの平和を無駄にしてはならないと感じ、より一層遠大な平和に邁進することをお約束いたします。四十数年前突如として変ってしまったかっての日本に、あなた方は確かに生きていらっしゃいました。

私達は、遺族会青壮年部の一員として御英霊の価値ある勇気とその重大な歴史の一コマを手にし得る迄、尚一層努力することをおちかい申し上げます。

 

昭和六十二年四月二十二日

一志郡遺族会青壮年部

部長 三井 克己


本日ここに戦没者春季慰霊祭が、おごそかに執り行なわれますにあたり、参列の遺児を代表し、戦没者のみたまに対し、謹んで申し上げます。

諸霊は、さきの大戦においてひたすら祖国の勝利を信じ、一身をも顧りみず、危地におもむき、いとしい肉親や、なつかしい郷里を遠く離れ、各地を転戦苦闘を続けられ、遂に酷寒、炎暑の戦陣にたおれ、いたましくも散華されましたことは、私たち遺族にとって永遠に忘れることのできない深い悲しみであります。

あなたがたが命をかけてお守りいただきました祖国は、民主平和国家として世界恒久平和をめざして、力強くたゆみない歩みを続け、飛躍的発展を遂げておりますが、悲しくも尊霊遠く去りまして、この喜びを分かち得ないことは、かえすがえすも残念でございます。

私たち遺児は、今あらたに戦没諸英霊のご遺徳をしのび、再び悲しみの歴史を繰り返さない決意をあらたにし、平和を誓い、それぞれの分野において、より一層の努力をいたす覚悟でございます。

今は、ただ、諸霊のみたまが安からんこと、また在天の光として私たちを導き、みまもりたもうことを念じ、ここに列席の遺族御一同とともにひたすら諸霊の御冥福をお祈りいたします。

 

昭和六十三年四月二十一日

鈴鹿郡関町青年部長

中谷 等


春たけなわ、若葉の緑も色美しく感じる今日、三重県護国神社の御前に夛数の御来賓の御臨席を仰ぎ、県下の遺族の皆様と共に集い、かくも厳そかに春季慰霊祭が執り行われるに当り 遺族会青年部を代表し、謹んで英霊の御前に敬弔の意を捧げます。

顧りみますれば、あの痛ましい大戦からすでに四十三年の歳月が流れ、この間、我が国は、経済的に著しい発展をとげ、今日世界的にもその地位が確立されたのでありますが、今日の平和と繁栄は、只一途に祖国の繁栄を念じながらお国の為にと、身をもって国の礎になられた御英霊の尊い献身と犠牲の賜物であり、私達は片時もこの亊を忘れてはおりません。御英霊の御前に深く頭をたれ 当時を忍びます時、祖国と民族の安泰のために殉ぜられた崇高な至情が万感胸に迫り痛恨の極みでございます。支柱を失った我々遺族も困難辛苦の連続でありましたが、之を乗り越え乗り越えて今日に到りました。

当時姉が六才、私が四才妹は母のお腹に、そんな四人を残して父が出征いたしました。戦地の夫を案じつつ残された三人の子を守りながらの毎日、或る時はやさしい母として、一人で二役も三役もの務めを果し育んでくれた母、ほんとうに途方にくれた日々であったと思います。

でもお陰様でまわりの暖かい心に支えられながら三人の子供も、人並みに結婚もし、ささやかながら幸わせな毎日を過ごさせていただいておりますが父のことを思い出す時、幼なかった子供に、父からの愛を一方的に出すだけで、子供からの愛を受けることなく去っていった父を思い、今いたら家族のぬくもりを充分味あわせてあげられるのに…と父への思いがこみあげて参ります。せめて私達の子供にだけは、この苦しみや悲しみを味あわせてはならない。戦争の悲惨さ、みじめさを私達が身をもって訴え続け戦争のない平和日本を築く亊が、私達に果せられた使命であると思います。

又、靖国神社国家護持の問題、遺族処遇の問題など未だ実現を見ていない亊は、私達遺族にとりまして、誠に残念でなりません。私達青年部も遺族会発展のため、公式参拝の実現と世界平和のために頑張る覚悟でございます。

尚、三重県当局や関係の各位又地区の役員や皆様からは、御手厚い慰霊の行事やその他万般に亘り御高配御支援を賜っております亊は、遺族一同心より感謝を申し上げます。

英霊の皆さん、安らかにお眠り下さい。

終りに臨み、み霊の御冥福を御祈り申し上げ、私の追悼のことばと致します。

 

昭和六十三年四月二十二日

三重県遺族会青年部

代表 白坂 隆子


 祭辞

桜前線は例年より十日以上も早く北上を続け木の芽も日増に色濃くなってまいりました。本日ここに平成元年度三重県護国神社春季慰霊大祭が斎行されるにあたり、遺族青壮年部を代表して県内戦没者の御英霊の御前に今日までの御守護に、謹んで感謝の誠を捧げます。

本年一月七日、天皇が崩御され御在位六十四年、明治、大正、昭和の激動の時代を国民と共に苦しみを共にされた天皇陛下に一同喪に服し二月二十四日には新宿御苑で厳粛のうちに大喪の礼が挙行されました。テレビをとおして限りないご遺徳を偲び遥拝追悼させていただきました。全世界一七〇の国の内一六四の国の元首、代表が参列され、経済、文化、あらゆる面で世界から注目される大国に成長いたしました。

円高の続く今年の連休も三十数万にんもの方が外国に旅行されるそうです。

多くの若者もかつての激戦の地、南洋の島へ旅行に、レジャーに数時間で飛んで行ける現代です。

島々のジャングルに美しい海の中に眠る遺骨の事など知ることもなく、今日の豊さにどっぷり浸っている様に感じます。

私共遺児はすばらしい靖国の母に、家族に、地域の方々に貧しい中ではございましたが立派に育てて頂きました。

両親そろった子供よりも一層の愛をこめて、我が身を一切忘れて、主人なき跡、戦後の復興に朝早くから夜遅くまで心の安らぐ時もなく、夫婦そろって働く姿を見るたびに歯をくいしばり只子供の成長を楽しみに働き通していただきました。

又、遺族運動も白髪が目立ち、慈愛に満ちた顔のしわも増えた今日まで、親会の方と共に英霊の方方が安らかに眠れる様、子々孫々の幸せのため一生懸命歩んでこられました。

私達はその後姿を見て英霊の御心を知り、いとおしい妻や子を故郷に残して又、若くして父母の恩に報いる事も出来ず、祖国の為に戦火に散った尊いお命のお陰で今日の私がある事を思うと胸がつまってまいります。

昭和から平成に改まり婦人部の方々も英霊の御側に旅立たれる年令に近づいてまいりました。

戦後四十四年の間に平和、繁栄の日本は世界の歴史上奇蹟と言われておりますが、反面資源小国の我が国は輸出入や交流等により共存共栄する国々・人々の努力を無視することはできません。欧米への働きかけや発展途上の国々への責任も重く、日本丸の進路をまかせた政治家の一部の方が国民に政治不信を駆立てているのは残念です。

豊かさのみを求めて、英霊の示された国の安泰と世界の平和を願う魂を忘れてしまっているからだと思います。

私達青壮年部は父の残した遺産を確認し合って、谷部長を中心に靖国神社公式参拝の定着等遺族運動を引継いでいく覚悟でございます。

どうか今後も御加護をお願い申し上げ、青壮年部を代表して祭辞のことばといたします。

 

平成元年四月二十一日

阿山郡遺族青壮年部部長

広島 昭郎


 祭詞

平成元年の春がめぐり来て、春雨に清められそうな本日、かくも多数の、御来賓の方々の御臨席を得て、県下、各地の遺族会の皆様と共に、みたま鎮る大社の春季慰霊大祭が遂行されるに当り、遺族会青壮年部を代表して謹んで祭詞を大前に申し上げます。

早や、終戦の年からすでに四十数年、余の月日が経過しましたが、春と秋に繰りひろげられるこの大祭の都度、私達遺児は、お父さんに又、御英霊皆様にお逢いできることは、懐かしさと嬉しさで一杯でございます。こうして神前に、そして御英霊皆様の前に立ちて想うこと多くて語りつくせません。

初じめに、御英霊皆様に哀しい出来ごとをお伝へしなければなりません。御英霊皆様が、最も慕い、尊敬し、忠誠を誓った、昭和天皇が崩御せられ、そして、昭和の時代が終り新しく平成の時代となりました。昭和天皇のご逝去により、六十二年余にわたる昭和時代は幕を閉じました。

内外に多大の犠牲を強いた戦争、そして敗戦、戦後の民主化と、復興、経済大国への発展という、あらしのような昭和史の動乱のなかから、われわれが生きる今日の民主国家、祖国日本は生れ育って来た。その平和と繁栄は、過去の歴史に対する反省と国民のあゆまぬ努力の上に結実したと言えるでしょう。

思えば、国の為、忠心の誠を捧げて、生還の願いもむなしく北方の吹雪の中に又、南方のジャングルの中で祖国日本の行くえと家族の安否を気遣いながらなくなられた、お父さんや御英霊の皆さんを思うとお気毒でなりません。

戦後、四十数余年が経過した今日、我が祖国日本は世界のどこの国にも類を見ない文化国家、又、経済大国として素晴らしい発展、成長をとげて参りました。その蔭には、二五〇万の御英霊皆様の尊い犠牲があったことを忘れてはならない。このことを歴史上、代々日本国民に語り伝えることが我れ我れ遺族青壮年の使命であると考えます。

この犠牲に対して国家は少なからず、ざんげをしなくてはなりません。父や御英霊皆様が国家を想い苦るしみながらも息を引きとる寸前の心境を思うとき、その心配は残された、妻、子供、そして父母、兄弟のこと、そして生活の安定ではなかったかと思います。

万が一、死すとも国家において遺族の生活が保証されてこそ、祖国日本を護り、又必ずや、日本に平和が来るであろうと信じその若い命を靖国に捧げた御英霊、二五〇万の皆様を思うとき、今この現実を見て、遺族の生活の安定安泰の出来る靖国神社、国家護持の確立、現在の護持ではご英霊皆様が安らかに永眠することが出来ません。一日も早く、靖国問題が解決されるよう念願するものであります。

又、異国に眠るご英霊の皆様が一日も早く、日本で安らかに永眠されるべく遺骨収集を行こなって参りましたが、これからも収集に努力をしなければなりません。私しは十二年前の昭和五十二年、父の戦没地であるニューギニアえ、二週間ほど行って参りましたが、悲惨な異国の現地を見るとき、ただただご英霊皆様が哀れでなりませんでした。日本政府は、遺骨収集はもう終り近くなったとして、収集事業に難色をしめしているようですが、異国で野ざらしでご遺骨が見つかる現状を思うと、居ても立ってもおられない気持ちで一杯でございます。

真の平和を確立、推進すること、これが英霊皆様に答える道だと思います。

我れ我れ遺族壮青年部は、必ず将来その責任を果すことを誓うものであります。

さて、昭和時代は終り、新しい平成元年を迎へた今日でございますが、日本政府の現状を見るとき、いろいろな問題が山積し政府と国民の信頼関係がこれまでになく薄れ、なくなって来ているようで心配でなりません。

どうか、御英霊の皆様と共に祖国、日本が平和でいられるよう心から念願するものであります。戦争の悲劇を、身を持って体験した私達、遺族青壮年は、悲しく、辛い、苦るしみを知った、幼少時代の貴重な経験とその中から得た良識とにおいて祖国日本の、いや、世界の恒久平和を念願し日夜、情熱を傾け、御英霊の精神を継承することをお誓いしますと共に謹んで祭詞といたします。

 

平成元年四月二十二日

三重県遺族会青壮年部

南牟婁郡部長

東地 昇


 祭詞

若葉の薫る、春の名残りの風に花咲き匂う今日の佳き日に、このように多数の来賓の方々の御臨席を賜わり、県下各地の皆様方と共に英霊の魂をお招きし、この護国神社の社頭に於て春季慰霊祭が挙行されるに当り、遺族会青壮年女子部を代表して謹んで諸英霊の大前に祭詞を申しあげます。

省り見ますれば、あの激しかった戦争で国のため郷土のため忠義の誠を捧げて遠い異国の広野に遥かな南海の孤島で生きて還る願いも空しく、祖国日本の行く末と家族の安否を心に秘めながら尊い生命を捧げられた英霊の心境は、私達の想像を絶するものであったに違いありません。私の父も私が六才の時、お国に召されて戦地に立っていきました。あの時の父の優しかった面輪が、幼な心に今だに焼ついて離れません。

あれっきり父は母と私達姉妹の待つ故郷へは帰っては来ませんでした。父を失ってからの母は、私達二人の娘を生き甲斐にして苦しみ心身をついやしながら、それでも健気に生きて下さいました。しかし、それもつかの間、母に少しでも幸せな暮しを早く私達も大人になってと思っている矢先、重なる心身の重荷に耐えられず、この世を去ってしまいました。

それは戦後まもなくの事でした。生れて何の楽しみもなく、夫と死別し、ただだまって懸命に苦労のみを重ねて逝った母を思い偲ぶとき、私は父を奪った戦争というものに本当に心からの憎しみを感じます。あの熾烈を極めた戦い、私達日本人の生き様まで変えてしまった大戦。終結して早いものです、もう四十余年もの長い歳月が流れ年号も昭和から平成へと改りました。

過ぎ行く月日と共にあの悲惨な事実が忘れられようとしております。しかし、私は忘れることはできません。最愛の父を御国に捧げた私達戦争遺児の心には、必して時の流れなどに甘んじて乗っては行けるはずはありません。かえがえないたった一つの尊い生命を捧げた崇高な心を思うとき、御霊への追慕は尽きず悲しみは永久に消えることはありません。私達は二度とあのような悲惨な戦争を繰り返してはならないと固く心に誓うと共に、私達の様な戦争犠牲者を絶対に出さない平和な国造りに努めなければなりません。

今、私達遺児の心より願うことは靖国神社、国家護持の実現です。政治を行い新しい日本をつくる最先鋒に立たれている総理大臣をはじめ、国政にたずさわる方々の重大な課題であると思います。

報われる事を求めず、ただ国のため一命をなげすてた英霊を国がお祈りするのが当然であります。一日も早い実現を同志と共に手をとりあって、この上とも努力することを改めてお誓い申し上げます。

変化極りない現在の世相の中、私達は戦争がもたらした惨めさ悲しさを身をもって体験し、その中から得た良識を生かし世界の恒久平和を祈念すると共に親会婦人会と尚一層力を合せ、英霊の御霊に報いるよう一致団結する覚悟でございます。英霊の皆様、安らかにお眠り下さい。

本日この慰霊祭に臨み改めて父の遺影を偲びつヽ決意を新たに、日本の将来における平和であることを祈念し、英霊のお心に報いその精神を継承することをお誓いして謹んで祭詞といたします。

 

平成二年四月二十二日

三重県度会郡度会町大野木

遺族会青壮年部

中世古 喜久


 祭辞

神緑風かをるこゝ三重、護國神社に春の大祭を志向するにあたり、御来賓各位様を初め戦歿者遺族の方々多数御参列の営を賜り、南㔟地区遺族会を代表致しまして厚く感謝の意をさゝげます。思ひくれば、あの大東亜戦争勃発以来、早や五十年の歳月わ流れて考へ無量なものを感ずるのであります。身を提し祖國の安泰と民族の繁営を念じつゝ、あの異國の地に尊き生命を捧げられ御護り下さった亊が平和の基礎と成ったのであります。今や我が日本國も世界に誇れる経済大國と成り、更に発展し民主國家として愈々繁営の一途をたどる亊と存じます。私達遺族もあの悲惨な戦争など二度とあってはならぬものと平和の信念をつらぬく決意であります。たゞ私達遺族の念願とする靖國神社の國家護持法、更に公式参拝等、その悲願もむなしく今だ解決に至らず残念にたえません。尚、世は湾岸戦争に端を発し、世界の津々裏々に次ぎから次ぎと戦争の夢さめず誠に残念に思ふものであります。あの悲惨な戦況をテレビ、等、で生々しく報道され其の実情を見聞きするごとに私達遺族は胸の痛みを覚ゆる。まだ見知らぬ父の面影を連想し、絶へきれぬ思ひが走馬燈の如く父の有りし日が瞼に映へえてくる。夫を國防の楯となし、母はまだ幼い子供を背負い言葉では表らわせぬ苦難と闘いながら大儀の蔭に泣くに泣かれぬ思ひで私達遺子を育てゝくれたのである。今や私達遺子も成人し、子の親として有りし日の母の、その心況を思ふ時、いとをしく、心の痛みを覚ゆるこの頃であります。私達遺族会の青壮年部員として、その責任は重大であり、総力一丸と成って亊にあたらん亊を固く誓ふものであります。

最後に平和こそ人類の宝なりと叫びつゝ、諸英霊の御冥福をお祈り致しまして三重護國神社の大祭に捧げ祭辞と致します。

 

平成四年四月二十二日

鳥羽市遺族会答志青壮年

部長 濱口 武善


 祭辞

神緑風薫る三重護国神社に於て春の大祭が御来賓各位を初め、戦没者遺族多数御参列の中斉行されますことに対して、心からなる感謝の意を捧げます

顧みれば、敗戦の廃墟と混乱の中から国民一人ヽヽのひたむきな努力により今日では世界に誇り得る程経済力を有し、国際社会においても重要な地位を占めるに至っております。しかし、この繁栄の陰には興国の名のもとに若い命を絶たれた青年、健かな身体をと夛数の人々が戦火に散り果てヽゆかれたのです。我が国未曽有の難局に立ち向い、ひたらすら祖国の勝利と恒久を願って骨迠凍る極寒の地に、兜もこがす炎熱の中、文字通り水浸く屍草むす屍と帰ることのない異郷の地に散華された諸英霊の尊いいさをしの上に築かれたことを忘れることはできません。爾来、家庭の支柱を失った遺族の物心両面に亘る苦境は筆舌に盡し難いものがありました。しかし乍ら、国家の安泰と同胞の幸せを念願し尊い命を国に捧げ英霊となられた今は無き父、子弟の意志に応えるべく心に鞭を打ち互いに助け合い励し合い乍ら今日に至りました。戦後四十有余年、戦没者遺族の心よりの念願している靖国神社の国家護持並びに公式参拝が諸外国への配慮、又主義主張の異なる事いまだに実現を見るに至っていないことは誠遺憾の極みではあります。時は移り遺族の老令化が進み、その数が減少しつヽあることは自然の理とはいえ淋しい限りであります。みんなの息災を祈りつヽ、今こそ英霊の顕彰を声を大にしたいと思います。新らしい時代によって未解決の問題に取り組み、一層の努力し積み重ねてゆく所存です。

最後に戦争のない平和な国造りを誓い、諸英霊の御冥福を御祈りし祭辞と致します。

 

平成五年四月二十二日

磯部町遺族会

植前 正道


 追悼の言葉

平成六年春、ここ三重県護国神社、御神前にて春季大祭が行われるに当り、遺族会青年部代表して追悼の言葉を申上ます。

大戰終結から早や半世紀この間我が国は、目ざましい復興を遂げ現在の平和と繁栄を築いてまいりました。

しかしながら、その陰には先の大戰に散華された幾多の尊い英霊が犠牲と成っている事を忘れる事は出来ません。ただひとえに祖国の勝利と家族の安泰を念じながら、非業の最後を遂げられた父や夫や兄弟に思いを馳せる時、戰爭の悲惨とおろかさを平和な時代にあって、なを深く思い知らされます。自分達も幼なくして父を亡くし母を中心にすごしたさみしい思い出は今も忘れる事は出来ません。父を御国に捧げた私達遺児の心の中には時の流れはありません。赤紙一枚で国のために家族をすて勝って来るぞといさましく激戰の中に身を捧げた我が父、又多くの同胞たちの悲しみ苦しみは言葉ではいい表はす事の出来ない悲惨な戰爭であったと思います。

二十代から三十代と云う若い青年兵士、最後には家族の事や古里の山や川を想い異国の地に散っていったのです。悲しい事ではありませんか。

もう二度と戰爭は繰り返してはなりません。私達戰爭いじを又戰爭未亡人をぜったいに出さない平和な二十一世紀の国造りに皆で力を合して努め様ではありませんか。

世界平和を祈念しつつそのありのままを語り、美わしい郷土発展に努力する事が英霊にむくゆる道だと信じます。

最後にここにねむる永久の英霊の安らからん事を祈念申し上げ追悼の言葉と致します。

 

平成六年四月二十一日

遺族青壮年部代表

加太 山﨑 勝治


 祭文

満開の桜の花も葉桜の季節となりました。

本日、平成六年四月知事様始め多数のご来賓をお迎えして盛大に執り行われます三重県護国神社春季例大祭に遺族会青壮年部を代表して謹んで祭文を申し上げます

時の流れは早いもので終戦五十年となりあちこちで五十回忌法要の便りが聞かれるようになりました。

父の出征後、当時流行した腸チブスで亡くなった母に相ついで戦死の公報が入ったのは私三才妹一才半でした 祖母に引取られ、親戚と共に両親の亡い子という事で皆に大事に育ててもらいましたが、ある日、祖母に母の事を聞いた時、何とも言いようのない悲しそうな顔を見てからは誰にも両親の事を聞かないようになってしまいました。

だから私達姉妹には思い出す父母の思い出はありません。

大事に育ててもらった祖母が亡くなり自分が母となった時、身体の弱かった私の寝床に小さな膝をそろえて心配そうに覗き込む息子達に、幼なかった私達姉妹を残してゆかなければならなかった母の気持を始めて知りました。

それまでは「早く亡くなったから他のお母様達のような苦労しないで良かったね」というくらいにしか思ってなかったのです。

父がどんな思いで戦地に赴いたか母がどのような気持で臨床を迎えたかおもいやる気持がなかったのです。

息子が結婚し、初孫を抱ける幸せに今のこの思いを両親にもしてもらいたかったという思いでいっぱいです。

無い物ねだりは絶対しないでおこうと思い乍ら、自分が親となりましてからはよけい両親が恋しく思い出のない悲しみがあらためて胸を打ちます。

毎年の招魂祭ごと 老いてゆくお母様方の背中が丸くなる姿にさみしさを感じます。戦後半世紀となり、日本も世界の経済大国と言われるようになりましたが、その礎となられたご英霊のご加護である事を忘れてはいけません。

国家の安泰と郷土の繁栄を願い、家族の無事を祈りつヽ亡くなった父達は英霊となり私達を見守っていて下さいます。

残された私達は二度と犠牲者を出さないよう子供や孫に伝え、真に豊かな平和がいつまでも続くよう努力しなければいけません。

又、今だに総理が靖国神社公式参拝を実現なされない事にご英霊に申し訳けなく心を痛めております。来年の終戦五十年に向けて靖国神社公式参拝はじめ、その他諸問題が解決できますよう努力致しますことをお誓い申し上げます。

年々老いてゆくお母様方が幸せに過せますよう護国神社の社よりお守り下さい。

そうして、静かにお休み下さい。

 

平成六年四月二十二日

三重県遺族会青壮年部

尾鷲市代表

大畑 仁巳


 祭文

滿開の桜の花今年は例外に寒い春であった為、長い間見る目を楽しませて呉れましたが今では散り桜となって参りました。本日平成八年度三重県護國神社の春季例大祭に多数のご来賓の参列を賜り盛大に執り行われ、こヽに遺族壮年部を代表して謹んでご霊前に哀悼の誠を捧げ慰霊の言葉を申し上げます。

光陰矢の如しと申しますが、昭和から平成に移り今年で終戦五十一年の歳月が流れ去りました。父が出征したのは私が三才の時でした。父の顔も出征して行く父の姿も知らない童顔可憐なる幼な子でした。父は母、姉弟三人、両親を残して赤紙一枚で召集され南方の戰線へ、而し戰局は我に利なくだんだんと悪化し、遂には本土空襲焼け野が原と化し前線では飢と病で死する者数知れず、遂に昭和二十年八月十五日終戰となり、建國以来味わった事のない敗戰、而も無條件降伏と云ふ憂目となったのであります。

終戰と共に外地より次々と復員するが、父は遂に帰らず戰死の公報と白木の箱が帰って来たのでありました。昔の諺で「勝てば官軍負ければ賊軍」戰後の世相の乱れ、その上食糧難に追込まれ生活そのものは食べる事に精一パイでした。

やがて日本も髙度成長期に入り、めざましい発展を遂げ世界の経済大國となりましたが、その礎は戰爭の犠牲となられた英霊の加護である事を忘れてはなりません。

國家の安泰と郷土の繁栄を願ひ、家族の無事を祈って死んで行った父、多くの英霊の意を我々遺族特に壮年部はしっかりと心に銘じ、あの悲惨なる戰爭を二度と繰返さぬ様、又犠牲者を出さぬ様、そして人類の恒久平和に向け豊かな平和がいつ迄も続く事に努力邁進する様に務めねばなりません。クリントン米大統領が来日し、沖縄基地縮少の問題等日本で政治決着を行って居りますが、戰後五十年日本はハッキリとした独立國でありますが、今だに總理等の靖國神社の公式参拜が実現されない現状、我々遺族は一丸となってその実現に一致団結最善の努力を致すと共に、遺族の年々の髙令化に対し一層の福祉の強化と処遇の改善を強く要望し、併せて我々の組織の団結強化を進める覚悟でございます。

尚、我々遺族に対し並々ならぬご協力を賜わりました行政及各種団体の皆様方に、心盡なる敬意を表し今後一層のご支援ご協力を賜わらん事を。

終りに英霊のご冥福と今後一層のご加護を賜らん事を祈念して追悼のことばと致します。

 

平成八年四月二十一日

三重県遺族会壮年部

名賀郡青山町代表

上谷 邦夫


 祭詞

例年になく寒かった冬も過ぎ春惜しむ季節となりました。本日ここに三重県護国神社春季慰霊大祭が厳粛かつしめやかに執り行われますに当り、三重県遺族会壮年部を代表して謹んで慰霊の誠を捧げます。

お父さん見て下さい。母の背中で小さな手を振りながらお別れしてから早くも五十一年の才月が過ぎました。

たった一枚の赤い紙切れがお父さんとの永遠の別れになり私達の人生を大きく変えて行きました。

何故お父さんがいないのかと母を困らせたこともありました。でも負けるものかと母と二人で生き抜いてまいりました。

随分と年をとりましたが、そんな母に一言よく頑張ったと声をかけて下さい。

私達壮年部は慰霊の誠を捧げたい念願も含め、戦没者遺児による慰霊友好親善事業にとりくんでいます。

父たちが最後となった戦跡に、一度はたたずみ思いっきりお父さんと呼んでみたい。そしてどんな所でどんな思いで亡くなって行かれたのか思いを新たにしたいと思います。我が家のお米お水を持参したいと思います。どうか渇いた喉をうるおし、そして故郷三重のかおりを味って下さい。今年も中国、西部ニューギニア、マーシャル、東部ニューギニア、フィリッピン、タイ、北ボルネオ、台湾の戦跡をたづねることになっています。最近になって先の戦争は侵略戦争であったと心無い政治家の発言がありました。国家の繁栄と国民の幸せをただ一途に念じ、戦場に散華されましたご英霊の皆様方、多くの戦没者への冒瀆だと思います。

国でも家庭でも先人を無いがしろにしての繁栄はあり得ません。私達は今日の郷土はもとより、日本国の平和や繁栄の影にかけがえのない生命まで国家に捧げられた多くの戦没者があることを忘れてはなりません。お父さん見て下さい。戦争を知らない若い世代の人達に真実も語り伝えます。二度とあの悲しみをくり返すことのない平和な社会国家づくりにつくします。とし老いた母達の余世を守り、三重県の発展につとめます。

ご英霊の皆様が願われたわが国、わが郷土の平和安泰のため頑張りますことをお誓い申し上げます。どうかいつまでもこの私達をお導き下さい。そして、母達にもご加護を賜りお父さんの分まで長生きさせて下さい。どうか御英霊の皆様、安らかにお眠り下さい。

お別れに皆様方のご冥福と世界の恒久平和をお祈り致しまして私の祭詞と致します。

 

平成八年四月二十二日

三重県遺族会壮年部

南牟婁郡代表 元屋敷 昇


 祭文

三重県護国神社大社殿の御前に、県下戦没者ご英霊の御霊に対し、謹んで哀悼の誠を奉げます。

大戦終結から早や半世紀、この間わが国は、目ざましい復興を遂げ、現在の平和と繁栄を築き上げました。

しかし乍らその陰には、先の大戦に散華された幾多の尊い英霊が犠牲となっていることを忘れることは出来ません。唯ひとえに祖国の興隆と、家族の安泰を念じ乍ら、非業の最後を遂げられた父や夫や兄弟に、思いを馳せるとき、戦争の悲惨と愚かさを平和な時代にあって、尚深く思い知らされます。

現在が如何に平和であっても、祖国のために風化させてはなりません。我等肉親の崇高な死を教訓として受けとめ、その有りのままを語り継ぐことが残された者の責務ではないでしょうか。

私たち戦没者遺族にとりまして、かつては敗戦と占領施策の中で、戦争に繋がる家族として弾圧を受け、片や戦犯の東京裁判史観により、英霊の名誉は、いちじるしく傷つけられました。今も尚、侵略戦争発言に見られるごとく、戦没者に対する感謝の気持も、国家意識も失われ、先の大戦の誤った歴史観が定着していくことが、憂慮されることであります。

先般の愛媛県が靖国神社などへ玉ぐし料として公費を支出したことが、宗教的活動に当たるとした最高裁判決は、われら遺族にとって痛恨の思いであります。長い歴史事実や、社会的慣行を無視した、不当な判決であり国家護持のため英霊と化した人たちを、その国の国民が慰霊し報いることは、憲法以前の人道にかかわる基本的な倫理、人道的礼儀であります。時と人が変われば、判決結果も変わる、そういうものなのか、さすれば、私たち遺族自からにして世論の喚起に努め、歴史は又この判決を変えると、今このご霊前にその決意を表明いたすものであります。

日本国民はすべからく戦没者に対して、尊崇と感謝の誠を奉げるべきであり、総理閣僚等の靖国神社参拝の実行をはじめ、英霊顕彰運動に全力を傾注してまいります。

私たち平成九年度の英霊顕彰行事といたしまして、三重県護国神社への奉讃、追悼慰霊祭、追弔会の参列、靖国神社参拝、特に戦争遺児も壮年期に達しまして、世界各地で戦没された英霊の戦跡慰霊巡拝事業、並びに遺骨収集事業を進めてまいります。本年は東部ニューギニア、ミャンマー、沖縄、旧ソ連等九地域、慰霊友好親善事業として、中国、比島、マリアナ諸島、東部ニューギニア、インドネシア、ソロモン諸島、ミャンマー、インドに向けて出向く計画がされております。

思えば全世界に爪跡を残した戦争でありました。今では日本は世界の平和と経済の安定など国際社会の中で中心的な役割を果たすまでに至っております。

これもひとえに戦没者ご英霊のご加護によるもので、改めて感謝を申し上げ、再び悲しみの歴史を繰り返さないよう、決意を新たにし、平和の貴重さを後世に語り継ぐと共に、恒久的な平和の維持のため、より一層の努力を傾注し、ご英霊の成し遂げられた偉業をお称え申し上げここに堅くお誓い申し上げる次第でございます。

ご英霊の永久に安からんことをご祈念申し上げ追悼の言葉とさせて頂きます。

 

平成九年四月二十一日

亀山市遺族会

青壮年部 西川 茂男


 祭詞

財団法人三重県遺族会は、昭和二十二年四月二十五日結成発足以来本年で五十年目を迎えます。

この意義ある節目の年にあたり、三重県護国神社の大前で春季慰霊大祭が御来賓の方々の御臨席を賜わり、しめやかに執り行われ、ここに謹んで慰霊の誠を捧げ祭詞を申し上げます。

我が国が今日平和と自由の恩恵を享受できるのは、偏えに幾多の戦没者の尊い犠牲によってもたらされていると思います。

たたひとえに祖国の興隆と残された家族の安泰を念じながら、非業の最後を遂げられた父や夫や兄弟に思いを馳せる時、戦争の悲惨さと愚かさを平和な時代にあってなお深く思い知らされます。

遺族が高齢化し、つつがなく暮らしていられる事はそれだけ我が国が平和であった証であり誇るべき亊柄であります。戦争さえなければ戦没者の人生も、又家族も違ったものになったでありましょう。慰霊祭は遺族のためのものではない、戦没者に対して行うのであります。

各ご家庭では祖先を敬い年回忌を行い、日々香をたむけ手を合わせていると思います。

戦没者をお祀りするのはそれと何らかわらないのです。遺族は年をとり足腰が痛くまともに歩くこともままならず慰霊祭に参列することが少なくなりました。私の母も女手一つで子供達三人を育てゝくれましたが、昨年父の元へと旅立ちました。これで父と母はやっと天国で手を握り合って安らかに眠っているであろうと思います。

国の平和と繁栄家族の幸せを信じて二つとない生命を捧げられたその御心は永遠に顕彰されてしかるべきであります。

靖国神社への公式参拝の実現にむけては、多くの国民の期待を裏切ることなく戦没者に対する国及び心ある国民の期待に公約どおり応えるべきであります。私達遺児の願いはご英霊のみたまに報いるよう一致団結する覚悟でございます。

この四月早々最高裁法廷での愛媛訴訟判決がありました。靖国神社や護国神社が大多数の国民に戦没者をしのぶ慰霊碑として受け止められていることは公知の事実です。

国家のために命を失ったご英霊に報いることは憲法以前の人道にかかわる基本的な倫理であり日本人の原点であります。今後の本会における壮年部の役割は極めて重要であります。

後継体制確立のためにも三者一体となった組織の運営強化につとめ、本会との活動の一体化を図り充実していくことを誓います。

改めて日本の将来に於ける平和であることを祈念し、その精神を継承することをお誓いして謹んで祭詞といたします。

 

平成九年四月二十二日

三重県遺族会壮年部

津市代表 久世正勝


 祭辞

本日三重県護国神社の社頭に於て平成十一年度春季慰霊祭が、ご来賓各位およびご遺族多数のご参加を得、厳粛かつ盛大にとり行なわれるにあたり、先の大戦の犠牲者となられました本県出身の六万余柱のご英霊の前に遺族を代表して謹んで感謝の誠を捧げます。

顧みますれば、あの太平洋戦争が無条件降伏文書の調印という形で締結され早くも五十四年が過ぎようとしています。

その間我国は、耐え難きを耐え忍びがたきを忍び、あの焼け野原より目覚ましく発展を続けてまいりました。

平和国家を築き経済大国とし現在は世界の重要な国家として認められる程になりました。しかし、その礎にはご英霊が祖国を守る為最愛の肉親と別れ生まれ育った郷土を後にして遠く離れた異国の地で祖国の勝利を信じ全力を尽くして戦争に参加して下さったからであります。

その事を私達は深く心のうちにきざんでおります。

しかし、時に利あらず武運つたなく戦いに敗れ再びなつかしの祖国の土を踏むことなく異国の地で空で海で散華されました最愛の肉親とも再会することもできずその無念さを偲ぶ時、今もなお私達遺族の胸は張り裂ける気持ちで一杯です。

涙のとどまるところを知りません。

我国の発展は皆様ご英霊のご加護があったからだと私達遺族の者は決して忘れることがないでしょう。

また国民皆が忘れてはなりません。

現在は戦争を知らない世代が過半数を超えております、時代の経過と共に先の大戦そのものが風化されようとしています。

しかし、現在の繁栄と平和はご英霊皆様が命をかけて勝ち取って下さったものであります。私達のように、父親の顔を知らずに育った辛さは次の世代には絶対無くさなければなりません。

最後になりましたが遺族積年の悲願であります靖国神社国家護持、かっての激戦地での遺骨収集等、私達壮年部は一丸となりこれ等目的達成に邁進し我国と世界平和の為力の限り尽くすことをお誓い申し上げます。

ご英霊の皆様どうかあなた方の故郷三重県をそして日本の国をまた私達遺族の上に幸多からんようにお守り下さい。

そしてご英霊の皆様が三重県護国神社の御社に安らかに神鎮まります事を祈念申し上げまして祭辞といたします。

 

平成十一年四月二十一日

桑名市遺族会壮年部長

内藤 紀雄


 祭文

新緑の若葉香る佳き日の季節となりました。

本日平成十一年度春季慰霊大祭が三重県知事様はじめ多数のご来賓をお迎えして盛大に斎行されるに当り、県遺族会壮年部を代表して謹んで祭文のお詞を申し上げます。

さて今年もひとつ年を重ね終戦から五十四年がたちました。

昭和三十五年九月、私は妻の母と養子縁組をし、即結婚したので準遺族ということで遺族会の活動に参加させていただいております。当町内では公務扶助料をいただいている家庭から役員を選出されるので昭和四十八年四月桃取町遺族会長、平成三年に鳥羽市青壮年部長に、更に鳥羽市遺族会副会長と役を付けられ 祭文の当番市ということで準遺児、どう表現して良いのか苦慮しました。

義父の出征して行く姿は子供心にうっすら記憶しています。

自宅の前で親戚と村民の方にお国のためにガンバッてきますと言って身体にタスキを付け、日の丸の旗を持って出征していく姿を見送った。又私が結婚した当時親戚の方から聞かされたことですが、外地へ赴く時、久居へ面会、母は二人目を妊娠しているので行かれず妻が母方の祖母に連れていただき父に面会、その時父に母ちゃんは、と尋ねられた時にポンポンが痛いのと言ったそうです。祖母が言ったらいかんと言ってあったのに子供心に言ってしまったとのこと、母も面会に行きたかったと思うし、父はどんなに心残りだったことでしょう。又母はきっと元気で帰ってきてくれると信じ、待っていたと思います。しかし、昭和十九年六月一日東部ニュウギニアマルジップ方面で戦死との役場からの知らせに母の心中はどんなに悲しみ、悔んでも悔みきれなかったことでしょう。そんな母の気持を幼なかった妻は知る由も有りませんでしたから今になって母の大変だったことを思って悔んでいます。母は八十四才今は孫六人、曽孫六人に囲まれ百姓に励んでいます。

来年は二十一世紀を迎え、現在の日本の国は、めざましい発展をとげて世界の経済大国と言われる様になりましたのも、その礎えとなられたご英霊のご加護であることを忘れてはなりません。

しかし最近北朝鮮からミサイル発射、日本国名をつかった漁船が浸入されて日米防衛協力指針(ガイドライン)が国会で論議されているが近隣国に刺激を与えない様、戦争にならない様私達は念願したい。二度と犠牲者を出さないよう恒久平和に向けて平和で豊かな生活がいつまでも続いていくことに努力していきたいと思います。

最後にお国のために命を捧げてくださったお父さん方に、いつまでも決して忘れないことを約束すると共にご冥福を心からお祈り申上げて祭文と致します。

 

平成十一年四月二十二日

三重県鳥羽市遺族会壮年部

部長 岩佐 美次


 祭文

祖国の安泰と存亡を双肩に荷い、国難に散って行かれたご英霊の皆様、本日ここに三重県護国神社春季慰霊大祭が挙行されるにあたり謹んで哀悼の誠を捧げ慰霊の言葉を申し上げます。

戦後半世紀五十五年が過ぎ去り、我が国も諸士の遺志を継ぎ国民の忍耐と絶まざる努力により飛躍的な亢実発展をなし、今や世界の経済大国、先進国として成長をとげました。国内的には急速に進む人口の髙令化や社会経済の成熟化や髙度情報社会の到来など我々の意識や社会構造は大きな転換期を迎えてゐます。

そして今や我々は物的な豊かさのみでなく、心の豊かさを求めるようになってまいりました。

み霊と奉され今日の幸福を分かち合えないことは返すがえすも残念でなりません。

今では先の戦爭を知らない世代の人達が国民の過半数を占に到りましたが、どれだけ時が流れ去ろうともあの悲惨を極めた戦爭の記憶は決して私達の心から忘れ去る亊の出来ない深い大きな悲しみであります。

国のため一命を捧げたみ霊を国家がお祭りするのが当然であると私達が考え、皆様方の暖かいご支援とご理解を頂き一日も早く護国の杜に安らかにお鎭り戴くためにも今後も努力していかなければならないと思います。

私達は尊いご英霊の犠牲を無にしないためにも、先の大戦から学びとった教訓を生かし世界平和と我が国郷土発展のため更に一層の努力を傾注する亊こそ我々の責務であると共に末永く後の世に語り継ぐべき亊をお誓い申し上げます。

終りに臨み、諸英霊のご冥福をお祈り申し上げますと共に我々の行く末、又郷土の発展に一層のご加護を賜ります亊をお願い申し上げ慰霊の言葉と致します。

 

平成十二年四月二十一日

名張遺族連合会壮年部

山本 芳明


 祭詞

咲きほこった桜の木々にも若葉が萌えてまいりました本日、ここに三重県護国神社春季慰霊大祭が厳粛にかつしめやかに執り行われますに当り、三重県遺族会壮年部を代表して謹しんで慰霊のことばを捧げます。

たった一枚の赤い紙切れが、ただお国の爲にと愛国精神に燃え尊い命をなげ捨て、故郷をあとに、家族と別れ歓呼の声に送られ乍ら出征された姿を最後にお父さんとの永遠の別れになり私達の人生を大きく変えて行きました。今ある豊で平和な生活は、お父さんや後に残された母までも犠牲となった尊い賜物と感謝致しております。

そんな母と頑張って生き拔いて参りました、どうか一言良く頑張ったと声をかけて下さい。

私達壮年部は父達がその最後となった戦跡に一度は我が家のお米とお水を持参し、渇いた喉をうるおしふる郷三重の香りを味わって下さいとたたづみ、思いっきりお父さんと呼んで見たい。そしてどんな所で、どんな思いで亡くなって行かれたのか思うぞんぶん慰霊の誠を捧げたいとの願いで戦没者遺児による慰霊親善亊業に取り組んでおります。

今年も中国を始めとし九ヶ所の戦跡をたづねることになっております。

遺族皆んなが待ち望む靖国問題、国家護持、公式参拝はお預け、おまけにあの戦いは侵略戦争とまで話された心ない政治家の発言も聞いております。隣国えの気配りか、マスコミが怖いのか、どちらにしろ国家の繁栄と国民の幸せを、ただ一途に念じつつ戦場に散華されたご英霊の皆様方夛くの戦没者へのぼうとくだと思います。

国でも家庭でも、先人をないがしろにして未来の繁栄はあり得ません。私達はこん日の平和や繁栄の影に、尊いかけがえのない命まで捧げられた多くの戦没者があることを忘れてはなりません。

戦後かぞえて、五十五年が過ぎ戦争を知らない若い世代の人たちに真実を語り伝えなければならないと思います。そして二度とあの悲しみを繰り返すことのない平和な社会、国造りに励まなければなりません。

ご英霊の皆様が願はれた我が国、我が郷土の平和と安泰の爲に頑張りますことを、ご霊前にお誓い申し上げます。

どうかいつまでもこの私達をお導き下さい。そして年老いた母達にご加護を賜りお父さんの分まで長生きをさせてやって下さい。

話せどつきぬ思いが致しますがこれでとどめおきます どうかご英霊の皆さん安らかにお眠り下さい。

お別れに皆様方のご冥福と世界の恒久平和をお祈りいたしまして、私の祭詞といたします。

 

平成十二年四月二十二日

三重県遺族会壮年部

代表 榊原 一公


 祭詞

本日、春季慰霊大祭がここに催行されるにあたり、ご来賓の方々、また多数の皆様方に御参列をいただき誠にありがとうございます。

なお、式典を催行するにあたり、神職の方々にご奉仕を賜り厚く御礼申し上げます。

つつしんで、戦没者のご英霊に申し上げます。

先の大戦におきまして、戦没者の方々は、いとしい肉親や懐かしい郷里を遠く離れ、ひたすら祖国の勝利を信じて一身をも顧みず、力尽きるまで奮闘され、南海の果て、あるいは北辺の極地にて、いたましくも散華されました。

戦没者の方々の心情を察するとき、私たちは痛恨の情切々として、万感胸に迫る思いです。

残された遺族は一家の支柱を失い、悲しみに暮れながらも、戦後間もない混乱した状況の中で、互いに助け合いながら懸命に苦難を乗り越えながら今日まで歩んできました。

戦後五十六年が経過し、ご英霊のご加護のもと、国民の弛まない努力により、我が国は世界でも有数の発展を遂げ、経済的、文化的にも豊かな時代を迎えるに至りました。

とは言え、こうした経済発展と時代の経過と引き換えに、私たち日本人の心から、祖国を守るため尊い命を捧げられた戦没者の方々への感謝の気持ち、戦争がもたらしたいたましい惨禍の記憶が薄れ、戦争を知らない世代が増加しているのも、また事実でございます。

しかしながら、今の平和に満ちた日本があるのは、祖国のため、愛する家族のために、身命を捧げられたご英霊の尊い犠牲によって築かれたことを忘れてはなりません。

日本の平和と繁栄の礎となられたご英霊に感謝の誠を捧げるのは、残された私たちの務めであります。

新しい世紀を迎え、私たち遺族は、戦没者の方々の御心や功績を若い世代に伝え、再び悲しみの歴史を繰り返さないよう、これからも平和な日本の存続に邁進すると共に、ご英霊のご冥福を心よりお祈り申し上げる次第であります。

ここに、安らかにお眠りあらんことを祈念いたしまして、慰霊の言葉といたします。

 

平成十三年四月二十一日

三重県遺族会青壮年部 代表


 祭文

一木一草に芽吹きの季期、見はるかす山野は、瞬時に萌ぎその色を益々深くして居ります。

新しい世紀の初めの大祭を迎え六万有余柱の神霊の大前にぬかずきその想いを新たに致しますとき、口惜しさが倍にも増した悲しみとして、胸に迫るものが御座います。

戰の世紀と言われます過ぐる二十世紀今世紀に起ったことは、此の世紀に解決を私達は、此の言葉を信じ、ひたすら待ちました。只、時は無為に流れて空しさだけが心に残ります。

そうして今、二十一世紀始めの四月、森総理大臣は、退陣を表明されました。残されたわずかな総理在任中に是非私達の悲願である靖国神社にお参り戴けるのを日々待ち続けて居ります。

戰中戰後の六十年私達、母と子が共に辿った路、ましてや母達のそれを茨の道塗炭の苦しみ、波乱の人生、思い付く全ての言葉を羅列しても形容し得ない苦難の数々をその額の皺の一筋一筋に秘ませて老いて来ました。

夛くの母がその願いの適う事なく旅立って行かれます。

言葉だけの平和の氾濫の中で眞の平和の尊さを身を持って示された戰没者父達そして母達、私共が永遠に誇り得る唯一の情でありましょう。

父の顔を朧げに戰爭遺児と呼ばれて六十年父を父として呼んだことなど、一度とてなく、父親の戰死の日は知っているが生年月日など皆目判らない。

そんな自分が、父が残したであろう足跡を辿り、残したであろうその匂を今だ追い求めて居ります。

夛くの人に支えられて、六十路の齢を過ぐることの数年、髙齢者と言われる人達の入口に到りました。

家族も全て健やかな日々を大過無く暮らして居ります。

私達はこヽに正しい歴史を顧み、自らのその尊い生命を國に捧げられた二百五十万神霊の尊厳とその名誉を護り私達遺児に冠せられた全ての責を果すべく尚一層努力致しますことをお誓い申し上げ護國の神霊の御加護あらんことを祈念申し上げます。

 

平成十三年四月二十二日

一志郡遺族会壮年部長

三井 克己


 追悼のことば

木々の芽吹きと共に、日毎に緑が増し、目に鮮やかに映える候となって参りました。昭和二十二年四月、三重県戦没者遺族互助連盟として結成された遺族会から、丁度五十五年が経ちました。

本日、ここに御来賓各位のご出席を得て、護国神社春季大祭を行って頂くに当り、県下の遺児を代表して、御霊らに追悼の言葉を捧げる私はただ感無量の思いです。

私達は、「戦争」と云う言葉は知って居りますが、そして今日の平和は、みたまらの犠牲の上にあるという事も知って居ますが、戦争の悲惨さは分かりません。

母親から「お父さんは、お国の為に一生懸命、戦ったんだよ」とだけ聞かされて居ります。また「命日には護国神社に御参りするんだよ」とも付け加えてくれた事を、覚えて居ます。

長ずるに及んで靖国神社、護国神社や、極東軍事裁判記録などを読んで、一体日本人としての誇りは、何処に行ってしまったのだろうとさえ、この頃はそう思うように成りました。今、平和に暮らしている私たちの回りには、あの選ぶことも拒否することも出来なかった時代背景や、過去の歴史さえ考えない風潮が流れています。

戦争が、英霊が風化されそうな時代に生きている私達こそが中心となって、平和の有り難さを実践しつつ、団結し励ましあって御霊らをお慰め申し上げる事が務めだと思って居ります。

幸い、国も県も各地方自治体も、私達遺族に対し特別のご配慮を頂いておりますのでご安心下さい。

みたまらが案じて頂いています限度が近付いています、いわゆる「妻特給」の期間延長問題や、「特別弔慰金」問題など、御霊らの名に恥じないよう関係方面にお願いし、また努力致しますのでどうぞお守り下さい。

私達は、皆様の尊い犠牲を無駄にすることなく、心豊かな平和に暮らせる社会の実現に邁進することを、お誓い申し上げ、世界の恒久平和と戦没者皆様方のご冥福を、お祈り致しまして、追悼の言葉と致します。

 

平成十四年四月二十一日

阿山郡遺族会壮年部長 藤原正一


 祭詞

我が国が今日平和と自由の恩恵を享受できるのは幾多の戦没者の尊い犠牲によってもたらされていると思います。

ただひとえに祖国の興隆と残された家族の安泰を念じながら非業の最後を遂げられた父や夫や兄弟に思いを馳せる時戦争の悲惨さと愚かさを平和な時代にあってなお深く思い知らされます。

遺族が高齢化し、つつがなく暮らしていられる事はそれだけ我が国が平和であった証であり誇るべき事柄であります。戦争さえなければ戦没者の人生も又家族も違ったものになったでありましょう。慰霊祭は遺族のためのものではない戦没者に対して行うのであります。

各ご家庭では祖先を敬い年回忌を行い日々香をたむけ手を合わせていると思います。

戦没者をお祀りするのはそれと何らかわらないのです。遺族は年をとり足腰が痛くまともに歩くこともままならず慰霊祭に参列することが少なくなりました。私の母も女手一つで子供達三人を育てゝくれましたが十三年前父の元へと旅立ちました。これで父と母は天国で手を握り合って安らかに眠っているであろうと思います。

国の平和と繁栄、家族の幸せを信じて二つとない生命を捧げられたその御心は永遠に顕彰されるべきです。

靖国神社への公式参拝の実現にむけては多くの国民の期待を裏切ることなく戦没者に対する国及び心ある国民の期待に公約どおり応えるべきであります。私達遺児の願いはご英霊のみたまに報いるよう一致団結しなければなりません。

あの悲惨な出来事は約五十七年たった現在でも心にしっかり残っております。

国家のために命を失ったご英霊に報いることは憲法以前の人道にかかわる基本的な倫理であり日本人の原点であります。今後の本会における私達遺児の役割は極めて重要であります。

後継体制確立のためにも三者一体となった組織の運営強化につとめ本会との活動の一体化を図り充実していくことが大切です。

改めて日本の将来に於いて平和であることを祈念してその精神を継承することをお誓いして謹んで祭詞といたします。

 

平成十四年四月二十二日

三重県遺族会壮年部

北牟婁郡代表 巻堂純子


 祭詞

新緑のさわやかな季節となりました、本日こヽに三重県護国神社春の慰霊大祭が厳粛に執り行われますに当り、三重県遺族会壮年部を代表いたしまして謹んで慰霊の誠を捧げます。

御英霊の皆様方は、国家の繁栄と国民の幸せをたゞいちずに念じつヽ散華されてから、戦後早くも五十八年の歳月が流れました。顧りみますと、お父さんとのお別れは、昭和十九年六月でございました。敦賀聯隊へ入隊するため村の人たちに見送られて電車の後の扉より大きな日の丸を振りながら見送りに応えるお姿が最後となりました。今でもその時の様子がありありと浮かんでまいります。昭和二十一年戦死の公報に接し、かすかな望みも断たれ、当時六年生の私を頭に、五人の幼児をかヽえた母の気持を思うとき、私は長女として何としてでも母を助け、くじけないで頑張らなければと誓ったことでした。そして、母子共々一生懸命生き拔いてまいりました。妹たちも成長してきますと父親を恋しがります。人生の節目節目に何かと決断しなければならないことが多くなってまいります。相談に乗ってくれるお父さんのいないことがどれだけか口惜しく、思慕の念が保まったことでございました。

三重県では、昨年の秋から平和祈念特別事業として「二度と戦爭を起さぬよう次の世代に引き継ぐため」の趣旨で戦爭体験のきヽとり戦爭遺跡、戦爭に関する貴重な資料の収集などの取り組みを計画されました。私も伊賀地域を中心に調査に携わらせていたゞいております。平和の願いは遺族のみならず国民みんなの願いでもありますが、国外ではこの度のイラク戦爭で犠牲となった一般市民の苦しみ、荒廃した町のようすなどをテレビなどで目にしますとき、私たちの平和への願いと裏腹に悲惨なくり返しに無念でなりません。今こそ、戦歿者の遺児である私たち壮年部は御英霊の皆様が願われた我が国やわが郷土の平和と安泰のため、一層頑張らなければなりません。今年も遺児の慰霊友好親善事業による慰霊巡拝がロシヤ、モンゴル、中国、南方、硫黄島へと郷土のお米や産物を持参して戦跡を尋ねることになっております。私も是非共お父さんの戦死されたフィリッピンをたづねて声をかぎりにお父さんを呼び お話しをしたいと思います。今静かに有りし日の皆様方を偲び乍ら、今日の平和と繁栄が皆様方の尊い礎の上に築かれましたことを心に深く銘記し、この平和を守り拔くことをあらためてお誓い申し上げます。どうかいつまでも、この私たちをお導き下さい。そして年老いております母はちにご加護を賜り、お守り下さいますように。

この護国神社にお祀りされておられます六万三百余柱のご英霊の皆さん、どうか、安らかにお眠りください。

お別れに皆様方のご冥福と世界の恒久平和をお祈りいたしまして私の祭詞と致します。

 

平成十五年四月二十一日

三重県遺族会壮年部

代表 岩野 由子


 祭文

野には花、田植も見られるこの頃となりました。本日ここに三重県護国神社春季慰霊大祭が厳粛にかつしめやかに執り行われますに当り、三重県遺族会壮年部を代表して謹んで慰霊の誠を捧げます。

お父さん見て下さいと母の背で小さな手を振ってお別れしました。最後の思い出になろうとは、瞼に焼きついたまま半世紀以上とっくに過ぎ去りました。

お加護ありがとうございます。お陰様で元気な孫達が育っています。

見ていて下さい、立派に育て上げます。世の中のため人のため、存分に働く人間に仕立たいと思います。

お父さんの悔の残った分までも頑張ってほしいと願っています。

又母も頑張っています、腰も曲りました、この頃は、ぐちなど言いません、強い人になりました。

私達壮年部は三重県の行う平和祈念特別亊業の調査に取組んでいます。

どんな所でどんな思いで亡くなって行かれたのか 調査の進むたび実感しています。

最近になって先の戦争は侵略戦争であったと心無い政治家の発言がありました。国家の繁栄と国民の幸をただ一途に念じ戦場に散華されましたご英霊の皆様方多くの戦没者への冒瀆だと思います。国でも家庭でも先人をないがしろにして未来の繁栄はあり得ません。

私達は今日のこの平和や繁栄の影に尊いかけがえの無い生命まで国家に捧げられた多くの、戦没者があることを忘れてはなりません。

今こそ戦争を知らない若い世代の人たちに真実を語りつたえなければならないと思います。そして二度とあの悲しみをくり返すことのない平和な社会、国づくりに励まなければなりません。

ご英霊の皆様が願われたわが国やわが郷土の平和と安泰のため頑張りますことをご霊前にお誓い申し上げます。

どうかいつまでも、この私たちをお導ちびき下さい。そして年老いてまいりました母達にご加護を賜り、お父さんの分まで長生きさせてやって下さい。

どうかご英霊の皆さん安らかにお眠り下さい。

お別れに皆様方のご冥福と世界の恒久平和をお祈りいたしまして私の祭詞と致します。

 

平成十五年四月二十二日

三重県遺族会青壮年部代表

南牟婁郡紀宝町

元屋敷 昇


 祭文

本日此処、三重県護国神社の大神前に公私共にご多用の折多数のご来賓各位のご臨席を仰ぎ、春季慰霊大祭が盛大に執り行われるにあたり、戦没者遺族を代表し謹しんで祭文を申し上げます。

戦後五十九年我が国は経済的には豊かになりましたが、戦後平和の礎になられた多数の犠牲があった亊に深く思いをめぐらし国をあげて、これら犠牲に追悼の誠を捧げ、多くの犠牲の上にもたらされた平和への思いを年ごとに新たにしなければなりません。我々遺族や戦争を体験された皆様も高齢になられましたが、まだ我々がしなければならない亊、二十一世紀の日本の国家像、姿を立派なものとして残していくための使命責任を痛感いたしております。

総理閣僚の靖国神社参拝の継続定着を推進してまいります。小泉首相は靖国神社に四年連続国のため犠牲となられた、ご英霊に感謝の誠を捧げられ、素直な気持で参拝されました。

近隣諸国の反発や昨今の憲法違反問題等司法判決の断にもおそれず、ひるまず、とらわれずを貫き、ごく自然な感情からの参拝で、この意義は大きく、首相の英断には感謝いっぱいであります。二度と戦争を起こしてはいけないという戦没者の声は、声なき声いかなる状況であっても避けてほしいと願っておられます。靖国神社は遺族や多くの国民にとっては戦没者を偲ぶかけがえのない所、新たな国立戦没者追悼施設建設等必要ありません。

内外の人々がわだかまりなく平和を祈念する靖国神社は日本人の中心的施設でもあります。

子孫達を見守り時に導いてくれると信じ、ホトケとして尊ぶという日本人特有の霊魂観、祖先観を培ってきました。

日本の国の日本人の心を取り戻すことは一般によく「天国のお父さん」等と言いますが亡くなった人が今でも何処で存在するだろうと思いを馳せる、追って悼むという亊です。

現在国際情勢のなか、テロ拉致イラクの混沌等に関しても人の命の尊さを世界中でいま一度再認識しなければいけないと思います。

終戦六十周年が目前であります。遺族会の今後のあり方等を検討、努力してまいります。

母の背中を見つめて育った戦没者遺児は組織の中核となって後継者である自覚の上で積極的に活動推進していきます。慰霊友好親善事業等も拡充しつつあり参画協力します。

この目的は慰霊追悼や現地の方々との友好親善等を実施し恒久平和を願う亊です。国外国内での社会奉仕を引き続き行ってまいります。

特に高齢化著しい婦人部へ女性遺児の参加も願い、遺児後継者育成につとめる等同じ境遇の仲間としてまとまり、これらの懸案解決に向って邁進してまいりたいと思います。

最後になりましたが、この春の大祭の挙行にあたり関係機関、関係者各位のご支援とご指導賜わりました亊、深くお礼申し上げます。

ご英霊の心を心として我が国の歴史と伝統を正しく継承し日本の平和と繁栄の確立のため、ご英霊に感謝と慰霊の誠を捧げ、これからも一層の精進努力してまいることをお誓い申し上げ、私の祭文といたします。

 

平成十六年四月二十二日

津市遺族会

久世 正勝


 「祭文」

本日、茲に三重県護国神社、春季慰霊大祭に臨み、遠くは幕末、明治維新の内戦から、相次ぐ国外事変や、彼の大東亜戦争に、県下各地より出征され、護国の為、戦禍に散り、また志、半ばにして病に臥され、戦病死されました三重県郷土出身戦没者、六万三百四十四柱のご英霊の御霊の御前に、員弁地区遺族会を代表し、謹んで祭文を奏上致します。

麗らかな春の陽差しに草木も芽吹き、山里の木々の梢も若葉色となり、季節の移り変わりと、年月の巡りの早さを感ずる今日この頃、彼の米英軍との凄まじい大東亜戦争が終結し、早くも終戦六十年の年が巡って参りました。想えば、ご英霊の皆さまには、この離れ難き三重の故郷を後にされ、身の覚悟と、万が一つの無事な生還を心に秘められ、お年を召されたご両親や嫁がれて間もない奥さまと、生後間もない乳飲み子を残し、また、暇さえあれば山に登り、野に駆け走り、川あれば小魚釣りと、共に遊ばれたご兄弟姉妹との、永遠の別れを堪え忍ばれ、何よりもご家族さまの行く末をご案じながら、悲壮な決意で次々と戦場へご出征されたことと思います。

とりわけ、本土防衛線となった大東亜戦争の戦場におかれては、一死報国の大和心の決意も堅く、敵軍の真中に突っ込まれ、異国の広野に大砲の煙と共に消え果てしご英霊や、敵艦の艦砲射撃にあたり、海中深く沈んで逝かれたご英霊達、或いは、遥か南洋の島々では死闘を繰り展べ、玉砕を敢行され、壮絶な死を遂げられた方々や、また病魔に冒され、ご戦友の看護の甲斐なく、ジャングルの岩陰で銃剣枕に亡くなられたご英霊など、ご帰還の願いも空しく、空に陸に海に身限りし、ご英霊の皆さまのご功績の甲斐なく、敗戦の憂き目を見るに、お嘆きは如何ばかりかと、万感胸に迫り、お慰めの言葉もありません。

また、国家存亡の危機に身も名も惜しまず、激戦地へと赴かれた志願兵の人達や、敵軍の戦闘機や潜水艦に突進せられた、肉弾特別戦士のご英霊もあり、命を掛けての戦い振りの有様を想像しますと、あまりにも惨く、悼ましいご最期であったことと推察致します。

私は「戦争」という言葉だけで、戦死した父と、今は亡き母のことがいつも脳裏をよぎります。

父は、昭和十九年一月、福知山の駐屯部隊で、私の兄の亡くなったことを知らされたそうですが、この年の七月、あの激しかったマリアナ沖海戦でサイパン島において玉砕しました。

父は、たった一人の後継ぎ息子の兄を失い、その時は、本当に後ろ髪を引かれる様な悲痛な思いで出征したことと思いますが、この年、昭和十九年十一月、私は戦争遺児最期の父の忘れ形見として生まれました。

私が生まれたことで、母は、後継ぎができたと、これも「神様と先祖のお陰や」と本当に喜び、毎年、私の成長を楽しみに、誕生日によく赤飯を炊いてくれた事を覚えています。

母一人子ひとり、一時は風前の灯火にあった家系を絶やすまいと、戦後の困難期から、私が成人するまではと、貧困な家計をやり繰りしながら、それこそ死に物狂いに、苦難の道程を足を引き摺りながら歩んできた、在りし日の母の顔が思い起こされてきます。

母は、昭和五十五年一月、持病の高血圧と腎臓病が悪化し、六十四歳でこの世を去りましたが、戦争未亡人として後家を徹し、男勝りに百姓一筋、もんぺ姿で田畑で働く、あの日焼け顔した母の顔が、今も瞼に浮かび、当時の事が次々と蘇ってきます。

戦後六十年、懐かしのご英霊達の故郷は、西の鈴鹿山脈の棚引く雲の様や、南の伊勢湾の潮騒は、今も当時と少しも変わりませんが、世相は急変し、当時の日本人たる愛国心や、道徳心は失われ、一部には、義務をわきまえず、勝手気ままな主義主張をとおし、悪を悪とも思わず、子が親を、親が子を殺めるといった嘆かわしい、憂慮すべき時代と変わりました。

また、最近の隣国からの内政干渉は、一部、新聞、テレビなどの、偏向的な理不尽な報道により、国民を煽り立て、混乱を起こさせ、また為政者にあっては、未だに敗戦国という負い目に惑わされ、弱腰外交を繰り返してきた結果が、隣国との諍いの原因となっているのではないかと思います。

ここ数年来、日本国土に頻発する天変地異は、まさにご英霊の皆さまからの、本当の日本人の心を揺り動かそうとする警鐘ではないかと思います。

祖国の為、一点の曇りのない一途な精神で、国の為、身を捧げ、恒久平和の礎を築いていただいた、ご英霊の皆さまの、その御恩に対し、私たち縁の深い戦没者の遺族が中心となり、そのご功績と戦争の悲惨さを後世へ永遠に語り継いで行くことをお誓い申し上げます。今も将来に亘り、靖国、護国の神として、御心も安らかにお鎮まりになり、再び痛ましい戦争を繰り返さない様お導き下さい。ご遺族の行く末を末永くお守り下さい。

本日茲に春季慰霊大祭にあたり、謹んで慰霊の誠を捧げ、祭文と致します。

 

平成十七年四月二十一日

旧員弁郡丹生川村大字片樋

開拓勤務中隊 河合隊 日下 千春(次男)

員弁地区遺族会(遺児)日下 正


 祭文

ご英霊の皆様そして、親父さん、義理のお義父さん、三重県護国神社春の例大祭において、謹んで祭文をお捧げすることが、出来ました。前回は、親父さんの從兄で、お義父さんもご存知である長岡栄太郎様が、県議会議長であり、たしか大祭委員長であられたように記憶しております。その時は長岡栄太郎様は、「お前の父は、ご英霊そのお祭りをするのが、私だ、これも因果関係だ」と言われました。

私の二人の父は、若き頃奉天での守備隊で戦友となり、帰還後お互い結婚し、再び支那事変が勃発戦場に赴き、共に戦っており戦後無事に帰還する事が出来たのですが、幼い私には、父の出征・帰還の記憶はありません。やがて我国は、大東亜戦争へと突入して行きました。三十五才であった父は、昭和十九年五月、祖父・母私ら兄弟三人を残し三度目出征して行きました。妻のお義父さんも、家族四人と名古屋市に住んでおられたようですが、昭和十九年出征しました。妻は、家族と親族の住む当時の宇治山田市へ帰って来たようです。その後二人の父は、フィリピン、ルソン島の戦場へ赴いたようです。そして一年後二人の父は、現地で戦死し再び家族の元へは帰って来ませんでした。

父が出征してからの経済面は祖父が面倒を見てくれました。家には田甫が少しですが残されており、小学五年生でしたが、母と共に学校も休み米作りをしました。母は強かった再婚せず、三人の兄弟を立派に育ててくれました。一本の矢は折れるが、三本の矢は折れないが、母の教訓でした。母の田甫のお蔭で、三度三度の食事も贅沢ではありませんでしたが、飢じい思いをせず成長しました。就職については、片親であるが故、どの企業からも拒否されました。貧しいながらも母は私を髙校にもやってくれました、私は刑務官、次の弟は建設省一級タイル技能士、下の弟は警察官とそれぞれの道を歩んで来ました、弟達も幸福な家庭を築き孫も出来ております。かなわない事ですが、今の生活と家族を、二人の父に見てもらいたいです。あの強かった母も十三年前に父の許へ旅立って行きました。

本年は、あのいまわしい戦が、敗戦という形で終結し、六十年の節目の年です。二人の父が眠るフィリピンへは過去八回お参りに行っております。三重県ご出身、垣部隊のご英霊が眠るレイテ島にも二回お参りに行きました。激戦の島です。

戦後我国は、平和を国是として、国民のたゆまぬ努力により幾多の困難を乘り越へ、平和で豊かな日本へ、世界に誇る経済大国としてめざましい発展を遂げてまいりました。これは尊い生命を国のため捧げられた、多くのご英霊の犠牲の上に成りたっている事を忘れてはなりません。この平和で豊かな今日においてこそ過去を謙虚に振り返り、戦争の悲惨さと、そこに幾多の尊い犠牲があった事を、次の世代に語り継ぐ使命があります。

終わりに多くの戦没者ご遺族の今なお変ることのない深い苦しみ、悲しみに思いを致すとともに、本日ご参列の皆様の今後のご平安と、ご多幸を心からご祈念申し上げます。

 

平成十七年四月二十二日

伊勢市遺族会

築山 新生


 祭文

春爛漫の今日の佳き日に、戦没者ご遺族並びに各界代表者多数のご参列を得て、平成十八年度三重県護国神社春季慰霊大祭が厳粛に執り行われるにあたり、北勢地域の戦没者遺族を代表して謹んで慰霊と感謝の誠を捧げます。

光陰矢のごとしとは申しますが、先の大戦が終わりを告げてから早くも六十年の歳月が過ぎ去りました。

終戦の年に生まれた遺児がすでに還暦を迎え、第二の人生を歩み始めております。昨年は三重県遺族会にとって大きな節目の年になりました。その一つは市町村合併に伴う遺族会の組織改変であり、もう一つは永年にわたり遺族会をリードしてきた壮年部が発展的に解消され遺族会が一本化されたことであります。

このような歴史的な変革の時期を迎え、私ども戦没者遺族はこれまで以上に一致団結し英霊の顕彰と戦没者遺族の福祉増進のため渾身の力をふりしぼって努力を続けていかなければなりません。

ご照覧下さい、今年の冬は格別の寒さが続きましたが、お陰で今日は遺族一同元気でご霊前に参列しております。これも諸霊のご加護の賜物と深く感謝致しております。

私どもは、その限りない深い悲しみの中にも皆様の遺族であることを誇りに思い一人ひとりが更に心を新たにして内外の厳しい試練に耐え、皆様が何よりも願われたわが国、わが郷土の平和と安泰を守り、進んで世界の恒久平和に役立ち、諸霊のご意志にお答えすることこそが我々に課せられた重大な責務であります。

そしてそのことこそが、過去に対する償いとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めることになると確信するものであります。

本日、三重県護国神社春季慰霊大祭にあたり先の大戦から学びとった教訓を深く心に刻み、平和で心豊かに暮らせるより良い社会の実現のために全力を尽くすことを改めてお誓い申し上げるとともに、ご英霊のご冥福をお祈り申し上げて慰霊の言葉とさせて頂きます。

 

平成十八年四月二十一日

三重県遺族会北勢地区代表

須原 賢治


 祭文

本日こヽに殉国の英霊の鎭まります三重県護国神社におきまして、御来賓各位並びに戦没者遺族の方々多数御臨席の中春季慰霊祭が斎行されるに当り、関係者の皆様方の暖いお力添えに対し厚く御礼申し上げます。

過ぐる大戦が終りを告げてから早くも六十年余の歳月が過ぎさりました。我が国未曽有の難局に我が身を顧りみる事なく一重に我が国の安泰と同胞の幸せを念じつヽ、遠く異郷の地において文字通り水漬く屍草生す屍と散華された方々に想いを馳せるとき哀惜の念一入のものがあります。

戦後杖とも柱とも頼む皆様方を失った遺族にとって厳しく苦難に充ちた永い道程ではありました。英霊の声なき声に励まされ遺族としての誇りを堅持し懸命に生き拔いて来ました。戦後六十年の昨年には戦没者達の遺族に対し、特別弔慰金が支給され国は改めて英霊に対し弔意を示されました。

靖国神社国護持・公式参拝等遺族が念願する中、小泉首相は国のため犠牲になられたご英霊に対し感謝の誠、不戦の誓を毎年靖国神社に参拝されておられること感謝申し上げます。近隣諸国の批判、違憲等障害のない靖国神社への参列ができる様願っております。

敗戦の不安と混乱から国民一人一人の努力により目覚ましい発展を遂げた今日、平和で豊かな生活を享受しておりますこの平和と繁栄こそ幾多英霊の犠牲の上に築かれた事を忘れることなく、現在が如何に平和で豊かであっても祖国の為身命を捧げられた英霊の史実を過去に葬り風化されることなく、英霊の顕彰を声高らかにし次の世代へと語り継ぐことが我々の責務であります。

皆様方の御冥福を御祈りし平和な国造りに尽くしたいと思います。御英霊の皆様安らかにお眠り下さい。

 

平成十八年四月二十二日

志摩市遺族会

植前 正道


春風がそっとほほをなでるような、さわやかな季節の今日 ここに春季慰霊祭が斎行されるに当り多数のご来賓の方々のご参列をいただきましたことを、心よりお礼申し上げます。

遺族会を代表して亡きみたまに謹んで追悼のことばを述べされていただきます。

昭和二十年八月あれから六十有余年という歳月流れました。

私が三才で妹が一才の時でした。まだもの心もつかない私は父を語る思い出もありません。その後母は死ぬか生きるかの苦しい生活の中で「幼い私たちのどちらかが、一人だけでも生き残ってくれればいいという思いでいた」と言うことを後に聞いたことがあります。何一つ芸のない母にとってその日暮らしの日雇い人夫で野良仕事をしたり縄ない工場へ行ったりあちこちの拾い仕事で生計を立て必死の思いで何とか人並に育てあげてくれました。時には汗ダクで農作業で疲れて帰宅すると庭へ入るなり「バタッ」と倒れ暫くは起き上ることもできない姿を目にした私は一生その母の光景を忘れることはできません。頑張りぬいた母も今は父と天国で私たちを見守ってくれているでしょう。

今日の苦しみを明日への糧へと 一生懸命耐えて生きた皆さんのお陰で戦後の復興は急速に都市化が進み 私たちの住む鈴鹿市も、またたく間に田園地帯から工業地帯に変貌しました。

もう戦争は終ったと言われますがまだまだ、あちらこちらから戦争の落し子の悲劇が聞こえてきます。また激戦地となった南の島々にもまだ多くの屍が残ったままになっています。私たちが今日平和で豊かな暮しをさせていただいているその陰には戦死された方々の大きな犠牲があることを心に深く留め、そのことを子孫にしっかりと語り伝えていかなくてはならないと思います。

これから先も平和の礎となってくださった戦没者の死を無駄にしないように、平和国家を維持していくのが私たちの使命だと思います。

この気持を忘れず謙虚に生きることを、英霊の皆さま方の前でお誓いいたします。

甚だ粗辞でございますが、みたまのご冥福をお祈りしつつ追悼のことばとさせていただきます。

 

平成十九年四月二十一日

遺族代表 平子 かなえ


春爛漫の今日の佳き日、ここ三重県護国神社のご霊前において、平成十九年度春季慰霊祭が来賓多数のご臨席を賜り県下各地より、戦没者遺族の参列のもと盛大に挙行されました。

三重県遺族会遺児を代表して謹んでご霊前に慰霊のことばを申し上げます。

戦後早や六十年余という長い年月を経た今日、私達は平和な日々に感謝の毎日を送っていますが、今もなお世界の国々では悲惨な戦いの報道がくり返されております。そして、世界の各地で幼い子供達がその犠牲となっております。

私達も早や高令者とよばれる年となり遺児というにはおよそふさわしくない年齢になりました。

戦場で尊い命を捧げられた多くの方々に思いを馳せるとき、戦後の平和と繁栄が、その犠牲の上に築かれた事を決して忘れてはならないとの思いを深くいたします。

私にとって父の記憶は、遺影をみることで、その存在を確かめることしかなく残された母の苦難の日々だけが今も鮮明に思い起されます。

現在のように母子家庭への手厚い保護もない時代でしたが、同じ境遇の人達のリーダーとして強く生きていた母のこと、そして残された私達を必死で守り育ててくれたことに、ただただ感謝しております。

殺伐とした現代の世想に、次の世代への不安がよぎるこの頃ですが、この平和がいついつまでも続きますように、ご英霊のご加護をいただけますよう心から願ってやみません。

終りに、国のため尊い命を捧げられた、ご英霊の方々のご冥福をお祈り申し上げ、私の慰霊のことばとさせていただきます。

 

平成十九年四月二十二日

三重県遺族会遺児代表 平山 滋子


 祭文

三重県護国神社ご本殿に祭祀される、三重県下六万数百余柱の、護国のために散華せられたご英霊たちのこえなき声が、護国の社、鎮守の森の木々草木に宿り、冬は木枯らし、春は桜、夏は蝉の声、秋はもみじの四季折々の風情にこだまして、切々として鎮魂の音声が聞こえてまいります。

本殿に二拝、ニ拍手、一礼をし「お父さん会いに来たよ、家族は健在だよ」と言葉をかけながら、思いはかつての戦争時代、日本が世界列強国からの侵略の国家存亡の緊急事態に即し、国家民族独立の自尊自衛の戦いを国民が一致、灼熱の火の玉となっている最中に、生を受けた人たちの、皇国日本を救うために、平和と家族の安寧を念じ、かけがえの無い、我が生命を捧げられたあなた方ご英霊のお気持を推察いたします時。

明治維新の黎明期より、富国強兵の徴兵令、大日本帝国憲法の発布、戊辰戦争西南の役に続く、日清戦争日露戦争、第一次世界大戦、満州事変支那事変、第二次世界大戦の一連の大東亜戦争において、幾多の犠牲者を輩出する結果と相成りました。

南太平洋の戦い、玉砕の島々の将兵たち、本土防衛の盾となり、一坪の土地に九発の砲弾を受けた、沖縄、硫黄島の戦、無差別攻撃の原爆投下による殺戮を敢行したアメリカ空軍の飛行士は、母国では英雄扱いされ、片や一瞬の原爆で壊滅した広島長崎には、死臭が漂い、夜になると、散乱した人骨から青白い隣の炎が舞い上がった。

こうした戦争において、日本に対する加害者はアメリカです。

戦争を知らない、若い人達には、日本がアメリカと戦争したんだよ、と言っても、ええ本当、と知らない顔をする、それほどに、戦後の日本歴史教育が空洞化している。

歴史は決して途切れるものではありません、歴史に起こった戦争の真実は真実として、率直に伝えられなければならないで有りましょう。

現在は刻々と過去になってゆきます、終戦より六十二年、戦争の落とし子、私たち戦没者遺児は、戦中に生まれ、戦後を通して育ってまいりました。

最後に残された戦争を知る者としての、社会的責任は重大であります。

その遺児たちも既に全員が還暦を過ぎ、戦わなければ守れない平和のあることは日常生活の常識として充分承知しています。

しかし、余りにも多大な国土人民の犠牲損害が伴うことは、絶対に二度と再び繰り返さない、戦没者遺族はもう作ってはならないとの共通の思いです。

私が昭和十一年十二月八日に生まれ、父が召集されたのが十二年八月二十一日、私は九ヶ月と十九日目にして父と決別の運命となり、父が北支錫山で戦死したのが十三年五月二十四日、私が一歳六ヶ月の時でした。

二十四才の若き戦争未亡人の母と、ようやく乳離れしたばかりの幼児の私が世間の注目を浴びながらの片輪な家族の生活が始まりました。

私が物心ついた時には、そこには母親がいました。

おぼろげに幼児であった私の記憶には、母に連れられ夜汽車で靖国神社の合祀祭に参拝、霊感あふれる靖国の暗闇の境内に白装束の人たちが、白い大きな箱状のものを担ぎ、粛々と祭事がおこなわれた光景は今もまぶたにのこる。

日本が敗戦を迎え、食べ物すらない時代、小学校三年生の成長盛りだった私に、栄養失調にならないために、自分は食べたふりをして、さつまいもの入ったおかゆを、私に食べさせてくれた母親。「お父さんのおる子たちにまけたらあかん」と叱ってくれた母親の言葉は私のハングリー精神を育む根源となりました。

未亡人を貫きながら子育てに専念してくれた母親、やさしくて、そして尽きぬ愛情を注ぎ込んでくれた母親の面影は、母の背中を見ながら育った、私の全てでもあります。

散り行く桜の花のせつなく、はかない人生を終えた母親でありました、せめても、若くして散華した父親のもとに赴いて、さぞ若返って、夫婦雛宜しく、新婚生活僅か九ヶ月で戦争により生木を裂かれた人生行路の穴埋めを、是が非でも精一杯成し遂げてほしいと願うばかりです。

戦死戦没者遺族はいずれ消滅する運命にあります。しかれども国家人民の命を享け、平和と正義の信念のもと、皇国日本に生命を捧げられたご英霊が、国家人民の感謝と崇敬の念により、未来永劫、太陽の光、人類の存する限り、在天の平和の守護神としてうやまい、顕彰されることをひたすら懇願し、ご英霊の御霊の永久に安らかならんことを、ここにご祈念いたし、つきぬ思いをこめながら祭文とします。

 

平成二十年四月二十一日

亀山市遺族会・戦没者遺児

川戸 真一


 祭文

本日ここに三重県護国神社春季例大祭が行なわれるに当たり、戦没者遺族を代表して謹んで哀悼の誠を捧げ諸霊のご冥福をお祈り申し上げます。戦後六十三年が過ぎ去り国民の半数以上が戦争を知らない世代となりました。故郷の山河はあの苛酷な戦争すら思い出すこともなく若々しい新緑の季節です。日本は憲法で戦争を放棄し現在の平和を享受しています。しかし、世界各地では今だに紛争がなくなりません。人々はなぜ争いをやめられないのでしょうか。人権や宗教の違いをこえて他人を理解し尊び合う必要があるのではないでしょうか。日本では過去の教訓から全てのことがらに話し合い民主主義を体し戦後の繁栄をきづいてきました。今日全てがグローバル化し日本だけで全てのことが解決出来ない時代となりました。通信等で経済はその日の内に世界中に伝えられる時代になりました。今も変わらないのは人の心です。国を愛し人を愛し目上の人を尊敬し社会のルールにしたがい自然を愛する心が大切です。古来より日本に伝わる精心文化がその基になろうかと思います。過去に学び将来に生かすこれが全ての事に通じると思います。遺族会も高齢化し今後の活動が遺児が中心となり多くの人に戦争の悲惨さを次の世代に伝えて行く責務があると信じます。終りに当たり、皆様方のご冥福を心からお祈り申し上げ私達遺族の上にご加護賜わらんことを念じつつ祭文といたします。

 

平成二十年四月二十二日

南牟婁郡遺族会

会長 尾崎 強


 祭辞

今年の桜は平年より、十日以上も早く咲き始めましたが、咲いたとたんに訪れた花冷えに、花はいっこうに咲き進まず、満開となるまでに、平年の実に三倍もの日数がかかりました。満開となってからは夏を思わせる暑さに、一気に散り急いだような気がする今年の異常な桜の咲き方でした。

本日ここに、三重県護国神社の秋季例大祭が執り行われるに当たり、三重県出身の六万余柱のみたまの前に、遺族を代表して、感謝の誠を捧げます。

地球よりも重いといわれるあなた方の生命を奪ったあの戦いが終わって以来、六十四年の歳月が流れ去りました。

あなた方は、お国のためと言うからこそ、職業を捨て、最愛の妻や子、親兄弟と別れて戦場に赴かれたのでした。

過酷な条件の下、国を想い、故郷を想い、家族を案じて若い命を戦場に散華されたご英霊方の無念さ思うとき、今なお胸が張り裂ける思いであります。

戦場では、戦友の皆さんがいてくださったとは言え、誰一人家族に看取られることもなく、末期の水も汲んであげられなかったこそ、なおいっそう、あなた方の最期を哀れに思うのであります。時移ってわが国があの廃墟の中から立ち上がって以来、人の世で言えば「還暦」と言われる六十年が経過して、もはや六十四年になろうとは、感慨無量であります。

六十四年もの長きにわたってわが国の、そして我が三重県の平和を守り続けてくださったあなたがたの崇高な精神を私たちは忘れることなく、次の世に語り継いで行かなければなりません。

遺族はいま高齢化が進んで、あなた方の親御さん方は、いとしいわが子の戦死をどうしても信ずることが出来ず、第二の横井さんや小野田さんを夢見て、あなた方の無事な帰りを待っていてくれましたがその甲斐もなく、大部分が他界されました。

妻の皆さんは、私たち遺児が成長の過程ではずいぶん苦労をかけましたが、もはやその平均年齢は九十歳台になろうとして、あなた方の元へと旅立たれた方たちも少なくありません。社会の荒波と闘いながら、必死に頑張ってくれたその健気な努力を称えてやってください。

兄弟の皆さんは、あなた方亡きあと、戦後の復興の第一線に立ってご活躍いただきましたが、もはやご高齢となって、次の世代へとバトンタッチされた方が大部分となりました。

我々遺児でさえ、一般社会で言う定年をはるかに超えて、孫の成長を楽しみにする年代となりました。

私たちは、父たちご英霊方が遺されたご遺徳がどんなものであったかを、正しく後世に伝える義務と責任を感じて、行動に移さなければなりません。

私は、さかのぼること三十七年前の昭和四十七年、父の戦没地ニューギニアへ遺骨収集団の一員として二週間、現地へ赴き、遺骨収集の作業と戦没者の慰霊に参りましたが、この二週間、原住民の方たちと、片言の日本語とゼスチャーを交えての交流が何回もありました。

現地の人たちは「日本の兵隊さんは、やさしかった。親切だった」と言っているのです。

それが証拠に、片言の日本語を覚えていてくれたこと。それに、意味が分からないままの丸暗記でしょうが、日本の軍歌を歌ってくれたことが、私たち遺骨収集団員にとって大変な感激であり、この上ない慰めでありました。

多くのマスコミの言う「あの戦争は侵略戦争であり、一方的に日本が悪かった」とする報道とは随分、温度差があるなあと思ったものでした。

戦後六十四年、この長きにわたってわが国の平和と繁栄の礎となって下さった戦没者の皆さんの犠牲と意義を、風化させることなく後世に伝えると共に、再び戦争を起こさない、平和な社会を守り続けて行くことこそが、遺された私たち遺族に与えられた使命と信じ、これからも行動してゆくことを誓います。

三重県出身のご英霊の皆さん、わが郷土三重県の平和と繁栄をいついつまでもお守り下さい。

ご英霊方のとこしえに安らかならんことを祈念致しまして遺族代表の祭辞と致します。

 

平成二十一年四月二十一日

遺族代表

三重郡遺族会長 佐藤 孝幸


 祭文

本日、ここに三重県護国神社、春季例大祭が催行されるに当たり戦没者遺族会を代表して、諸霊に対し謹んで哀悼の誠をささげご冥福をお祈り申し上げ、追悼の言葉を申し上げます。

戦没された皆様方は日本の繁栄とアジアの平和のため国内外の戦地で寒さや暑さ、風雨や飢えにも耐え、病とも戦い、残してきた家族のことも案じながら、日本の勝利のみを信じ敵と戦い続けられ惜しくも帰らぬ人となられました。

皆様の戦死の公報が私くしたちの家に届いた時、お帰りを待ち続けていた年老いた両親、兄弟、妻と子供たちは、まさかの知らせにしばらくは信じることが出来ず、路頭に迷い、生きるすべを失うほどでした。それでも遺族たちは、遺族会や行政、親戚や地域の方々に励ましをいただきながら、歯をくいしばり家族総出でがんばって生きてまいりました。

光陰矢のごとしと申しますが、あの戦争が終わって六十四年が過ぎようとしています。いま、私たちは平和で豊かな郷土で生活をさせてもらっています。これも、戦没者の皆様方のご加護と、また、戦後、着るもの食べることにも事欠きながら戦後の復興と家族のために豊かさを求めながら、ひたすら働き続けていただいた先人の方々のお陰さまと感謝をさせていただいています。そういった方々も高齢化が進み戦没者のご両親、ご兄弟や妻の皆様方も近年多くの方々が亡くなられていっています。先日のニュースによりますと、戦中、戦後の当事者の方々は国民の二十一パーセントになったと報じられていました。これも、時が成すことなのでいたしかたがございませんが、大変寂しい思いでございます。また、私たち遺児でさえ最年少が六十四歳と高齢になってまいりました。

私たちは、平和な今に生活をさせてもらっていますと、戦後の貧しかったこと、お腹が減っていたこと、お父さんが居ない寂しさと不安、くやしかったこと等、ややもすれば、忘れがちになっていますが、今の平和の尊さと、これほど多くの遺族や子供たちを出した痛ましい、あのような戦争は、二度と繰り返さないよう私たちは、英霊の顕彰を続け、後世に語り継ぐべく努力を続けさせて頂くことをご英霊の皆様方に、かたくお誓い申し上げます。

最後になりましたが、戦没者の皆様方には、安らかにお眠りいただきますようお祈り申し上げますと共に、今日この様に、慰霊祭を催行いただきました護国神社さまと公私共にご多忙中にもかかわりませず、ご臨席をいただきました、ご来賓の方々に遺族を代表し、衷心よりお礼申し上げ祭文といたします。

 

平成二十一年四月二十二日

遺族代表

津市戦没者遺族会 長野 利隆


 祭文

桜の花はもう散りつくして、若葉の色もめっきり濃くなり爽やかな季節になりました。

本日、ここに三重県護国神社春季慰霊祭にあたり、ご来賓各位をはじめ戦没者遺族の方々の多数の参列を頂き北勢地区を代表しまして謹んで慰霊のことばを捧げます。

過ぐる大戦に於いて、戦場に散り、戦火に斃れ、又戦後故郷を遠く離れた異郷の地に於いて、還らぬ人と成られた。戦没者皆様のあまたの、尊い生命は永遠に蘇らすことは敵わず、惜年の情一入なるものがございます。

歳月は夢のごとく過ぎ去り、先の大戦のイメージは、体験から物語の時代へと移ろいつつ有りますが、私達遺族の悲しみは、決して尽きる事は有りません。

想えば、痛ましく悲惨な体験を、半世紀以上に亘る私達の歩んで来ました道は、厳しく辛い歳月でありました。

お互いの、心の襞を広げて、助け合い、励まし合って、懸命に生き抜いて参りました。これこそが、自らの生命をなげうって、護ろうとした。最愛の者の住む国、育んでくれた故郷、そしてかぎり無きこの国の安泰を、心から念いながら、散華された皆様にお報いする唯一の道と信じて居ります。

皆様方が最期の最期迄、その脳裏から離れ無かったでありましょう、我が国は、焦土の中から幾多の困難を乗り越え国民一丸となってその英智を結集して、今日の平和と繁栄を築き上げ、今や世界の先進国として輝かしく前進して居ります。しかしながら、この平和と繁栄こそ戦没者の尊い礎の上に築かれて居ることを、私達は決して忘れてはなりません。二度と戦争を起こさない、再び戦没者遺族を出してはならない、との自ら学んだ基本を忘れる事なく、今後とも努めて参ります。

参列の戦没者皆様に、心から感謝の誠を捧げ平和へ決意を新たに致し、皆様方のご遺徳にお応え致す所存でございます。

心に受けた傷跡は、消しさる事はできなくとも癒すことは出来ます。いかに謗りを受けようと、戦没者皆様は常に正しかった、私達は限りなく深い悲しみの中にも、戦没者の肉親で有ることを誇りに、今後更により良き社会の実現に努力致します。

今、静かに移ろい行く時の中で、往時をしのびながら私達、一人一人が、更に決意を新たに厳しい内外の試練に耐え、戦没者皆様方が何より希まれた。我が国に自由と平和の鐘が、永遠に鳴り響きます事を、進んで世界の恒久平和の為に、戦没者皆様の御遺志を受け継ぎ次の世代に語り継ぐべく、微力をつくします事をお誓い申し上げます。

 

平成二十二年四月二十一日

遺族代表 石原 昭夫


 祭文

三重県護国神社に鎮まります、六万三百余柱のご英霊のみ前に遺族会を代表し、謹んで祭文をお捧げいたします。

かへりみますればあの苛烈を極めた大東亜戦争が終結し早くも六十四年の歳月が過ぎ去りました。その間我国は、平和を国是として国民のたゆまぬ努力により経済発展と、平和国家を築いてまいりました。これはあなた方ご英霊が尊い生命を犠牲にされた礎の上になりたっております事を忘れてはなりません。

靖国神社国家護持、そして内閣総理大臣によって公式参拝いまだ実現されておりません、ましてや現政府は一貫して靖国神社参拝を拒否しております。隣国による内政干渉もありますが、国家のため犠牲となられたご英霊に、国の長が参拝して何が悪いのですか。戦後処理は終ったという声を聞きますが、私達遺族が生きている限り終りはありません。沖縄・東南アジアの戦場には今だ多くのご遺骨が収集されずに残されております。私も退職後の平成六年から、十五年まで、モンゴル、シベリヤへ政府の遺骨収集事業に参加してまいりました。今は私には参加するよう声が、かかりませんが、遺族会も髙令となり参加出来なくなり、そのかわり、国士舘・拓殖の両大学の学生さんを中心に、全地域で収骨作業を行ってくれています。ある人が、私に言いました「遺骨収集は、一週間か、十日位やろ」と、そのような日数では何も出来ません。二十日から長いと一ヶ月、モンゴルの草原や、シベリヤの森林地帯で収骨作業をしてまいりました。その間の日本に情勢、台風は来ていないだろうか、家族の安否が気掛りでした。幸い収骨作業中何事もありませんでした。私達は定められた期日が終了すれば日本に帰れます。鉄砲の弾も飛んで来ません。誰も殺しにも来ませんが、ご英霊の皆さんには、いつ帰るのか帰る日もあてなく、いつどこから敵弾が飛んで来るやら、頼みの弾丸も食糧もなく、日毎ご苦労なされた事でしょう。その結果尊い生命を犠牲にされました。私達は収骨作業中ご遺骨に、今から私達と一緒に祖国に帰りましょうと語りかけ、一柱毎丁寧に取り扱い、焼骨の上祖国日本に奉持したのです。三重県ご出身のご英霊も何柱かご一緒に帰りました。これは後日厚生労働省のDNA検査でご家族がわかりました。

本年三月日本遺族会により、遺児として慰霊友好親善事業の一員として、父と妻のお義父さんの眠るフィリピン・ルソン島へ追悼の旅に赴きました。今回で十一回訪れた事になりました。父達は戦友でしたので生れ育った伊勢の事、そして家族の事を話して来ました。七十六才私達は戦友の息子と娘が結婚しており、今回父達の遺影を持参したので、妻の写真を、六十五年ぶりに抱かせてやりました。

ここで少し脱線する事をお許し下さい。三月九日朝、マニラの町から南へ約一時間、ロスパニオスの町、車の右側に、一,一〇〇米のバナハオ山が見えます。何日も見ておりますが、山頂まで見える時はあまりありません。今朝はくっきりと山頂まで見えました。昭和二十年四月、バタンガスの守備隊に、バナハオ山に集結するよう命令が下された。私の父の部隊は、南に位置するダラガ山で全滅しました。三月十一日フィリピンの慰霊巡拝を終って早朝靖国神社、千鳥ヶ淵戦没者墓苑に参拜し、その朝の新幹線で我家えと、その車窓から富士山、青空をバックに雪をいただいた、今まで見た事のない富士山、そこで私は、フィリピンのバナハオ山を重ねてみました。もとに戻ります。

遺族会の現況は、私の住む伊勢で、ご英霊の母一人が元気にしておられます。母達も寄る年波に勝てず多くの方々が、ご主人の許へ旅立って行かれました。遺児の仲間も、多くが職場をリタイヤし、立派な家庭を築き、年金生活をしながら孫達に囲まれ幸せな生活を営んでおります。年令も父の倍長生きしました。残りの人生は遺児同士手を組み、ご英霊の顕彰と靖国神社問題そして遺族の福祉向上に邁進する決意を持ち、心身とも豊かな社会の建設と世界恒久平和のため頑張る事をお誓い申し上げます。

結びになりますが、ご英霊のいつまでも安からん事を希い願い、ご冥福と、そして遺族の一人ひとりにご加護を賜り、ご健勝とご多幸をご祈念申し上げ、私の祭文といたします。

 

平成二十二年四月二十二日

伊勢市遺族会

築山 新生


 祭文

新緑の護国の森に今日、県知事様をはじめ関係各位ご参列のもと、戦没者春季慰霊大祭が執り行われるにあたり、戦没者遺族を代表して謹んで慰霊の言葉を申し上げます。

また 東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災されました方々の一日も早い復興を心より祈念致します。

大戦が終結し早くも六拾五年の歳月が流れ去りました。私たち遺族が共に助け合い、歩んだ道は筆舌に尽くしがたい苦難の年月でありました。

御霊たちが案じられたわが日本国も焦土の中から立ち上がり、幾多の困難をも乗り越え、平和な経済大国を築き上げてきました。

この陰にはひたすら祖国の興隆と同胞の安泰を念じ、身命を捧げ散華していかれた皆様方が築かれたものであることを、私たちは忘れてはいません。

政権が代わり、靖国神社問題につきましても、国のために一命を捧げたご英霊を国家がお祀りするのが当然であると考え、皆様方の温かいご支援とご理解を頂き、一日も早く諸勇士の御霊が、安らかにお鎮まり戴ける様、我々遺族が継続して努力していかなけばならないものと思います。

また、遺族会も今後さらに英霊顕彰運動を進め、平成弐拾五年の妻に対する特別給付金、平成弐拾七年の 特別弔慰金それぞれの継続を更には遺族会の存続をかけて、運動を進めていかなければならないと思います。

現在日本は、あらゆる面で構造改革が進められてきましたが、政治的、経済的に不安定な局面が見え隠れしています。

私たちも過去の体験から学んだ、多くの教訓を忘れることなく、国際社会の一員として世界の恒久平和と人類繁栄のための努力をしてこそ、ご英霊に応える私たちの責務と使命であると思います。

本日は、ご来賓の皆様方ご参列のもと、慰霊祭を挙行いただき、御霊たちは申すに及ばず、私たち遺族にとりましても誠に意義深く、感謝の極みであり、厚く御礼申し上げます。

半世紀を超える歳月の流れとともに、高齢化した遺族一人一人が充実した福祉のもとで暮らして行ける事が、御英霊の皆様方に御安心していただけるものと思います。

最後に臨み皆様方の御冥福をお祈り申し上げますと共に、御遺族皆様方の御健勝と郷土発展の御加護を賜りますよう心より、祈念申し上げまして 私の追悼の言葉といたします。

ふる里に 思いはせつつ 散華せし

みたまの心 かたりつたえし

 

平成弐拾参年四月二十一日

名張市遺族連合会

会長 山本 芳明


 祭文

最初に、東日本大震災により、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げ、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

本日ここに、三重県護国神社春季例祭が斎行されるに当たり戦没者遺族を代表して護国神社に鎮座まします神霊の御前に謹んで祭文を奏上いたします。

過ぎし大戦において、国家の安泰と国民の悠久の幸せを願い、郷土に残した家族の身を案じつつ戦場に赴き、戦火の華と散り、あるいは病魔に侵され、また帰国を待ちながら遠い異国の地において亡くなられた、三重県出身戦没者の尊い生命は永久に帰ることはなく、ここに戦没された皆様方の心情に思いを致すとき、万感胸に迫り痛恨の極みであり、先の大戦が悔やまれてなりません。

私の兄二人はフィリピン、ルソン島とレイテ島で亡くなっていますが、戦跡慰霊の機会がなく以前、岐阜県の慰霊団に参加させて頂き父はルソン島、私はレイテ島を巡拝してまいりましたが今一度訪れたいと思い続けておりましたが、昨年念願叶い三重県遺族会フィリピン戦跡慰霊巡拝団に参加し、ルソン島、レイテ島内を巡り慰霊祭を斎行致してまいりました、かっての激戦地、三十三連隊第三大隊玉砕の地、パロ高地・十字架山も四十年前には銃撃戦で木は一本もなく十字架だけが山頂にぽつんと立っていましたが、今は木の緑に包まれ十字架も見えず戦争の傷跡は無くなっていました。

先の大戦が終わりを告げてから早や、六十六年の歳月が過ぎ去り、国民の大半が戦争を知らない世代となり、ともすれば、あの苛酷な戦いの影、体験の風化が進み、英霊の貢献と遺訓が忘れ去られようとしていないでしょうか。

「天災は忘れた頃にやって来る」と言う言葉があります。東日本大震災では過去の天災を忘れられたか、防災対策が十分でなく人災で苦しんでおられる方々が沢山おられます。

戦争は絶対に忘れてはなりません。人間が犯した罪により人間同士が殺しあう戦争の悲惨さを心に刻み、忘れることなく、若い世代に語り継いで二度と再び悲しみの歴史を繰り返さない思いを新たにし、新しい時代にふさわしい平和を築き上げることが私たち遺族に課せられた重大な責務であり、これこそが、犠牲となられた、英霊のご遺志にお報いする唯一の途と信じております。

終わりに当たり神霊の御冥福を心より祈念申し上げ、今一度日本の国を御加護あらんことをお願い申し上げ祭文と致します。

 

平成二十三年四月二十二日

志摩市戦没者遺族会

会長 羽根弘夫


 祭文

本日ここに、県護国神社春季慰霊祭が多くの御来賓の御臨席をいただき厳そかに執り行なわれるに当り、遺族を代表して敬意と感謝を申し上げ、六万四百有余の御霊の御前に慎しんで哀悼の誠を捧げ祭文を申し上げます。

顧りみますれば、私達に幾多の悲しみをもたらせた先の大戦から六十七年目を迎えました。心ならずも国の平和と家族の安泰を願い 極寒の大地に 南溟の海深くに又異国の大空にとかけがえのない命を捧げられた御霊の無念を思うとき 往時の悲しみが新たにこみあげて参ります。

戦後私達遺族が味わった筆舌に尽くし難い苦難の道程は、御霊の無念と共に永きに亘り心の拠り所として着た総理の靖国神社参拝が実現しない限りいつまでも愈される事が有りません。

いつかはその日が来る亊を信じ誉れの家を護り靖国の妻として必死に生きて来たお母さん達、そして私達遺児も待ち切れずに春浅き夜明け前位に一つ秋深く西の空に又一ツと流れ星の如く昇天してゆく姿は、哀れと空しさを感じずには居られません。

伊勢の海から昇る朝日を拝み伊賀の山に沈む夕日を眺めて私達が享受している今日の平和も困難に際し、尊い生命を捧げられた多くの人達が居る事を今一度認識を新たにし、過去を疎かにしたり葬り去る亊は決して有ってはなりません。

今度の東日本震災に依り多くの人の命が失なわれ戦後国民の皆様が不屈の精神と英知を結集して復興して来た文明社会や産業、科学エネルギーが大自然の力の前に脆くも崩れ去り、私達に多くの教訓を残してくれました。

亡くなられた方々の御冥福を祈り、一日も早い復興を願い、色々の事を検証しなければなりません。

我国はもともと資源の乏しい島国で有り海外の資源や科学エネルギーに頼らなければならない国で有る亊、そして我国のみならず今や世界各国が資源の確保に血眼になり一方では生命が脅やかされる核や原子力エネルギーの開発に夢中になっている亊で有ります。

又我国をとりまく島々が隣国の力に依って脅やかされ国内の資源が海外の資本により失なわれていくに至っては国の存亡をかけて残念な亊実と云わねばなりません。

想えば七十年前海外からの制裁や輸入制限を受けエネルギー資源不足に耐えかねインドネシアの油田欲しさにマレー半島に上陸したのが先の大戦の始まりで有ると云われて居り、三百万人の犠牲者を出した人災となった亊は今改めて銘に命じなければなりません。

今度の東日本震災の復旧に向けての危険を冒かして努力されている公に生きる人達、或いはボランテアの人の目に見えない力は国の有り方と人と人との絆の大切さを教えてくれました。人は苦しい時に家族や故郷を思い出し国や民族の大切さを感ぜずには居られません。

今日の祭典を通し、私達は御霊の崇髙な心を心とし戦争の悲惨さと平和の尊さを風化する亊なく次の世代へ伝え乍ら、過去の過ちを再び繰り返さぬ様努力し更なる平和国家づくりに邁進する亊が御霊の御心情にお応える唯一の責務で有ると信じます。

今一度御霊の声なき声に耳を傾け、たぐりてもたぐりても、たぐり寄せられない思出や有りし日の面影を偲び御霊の安らかにお眠り下さる亊を御祈りし祭文と致します。

 

平成二十四年四月二十一日

遺族代表

伊賀市 川本 眞澄


本日ここ三重県護国神社において執り行われます春季大例祭にあたり謹んで祭文を申し上げます。

私達の幸せを願い、戦かい平和の礎となった父達 そんな父達のおもいを子供達のため苦労を重ね慈しみ育てて下さったお母様方の平均年令も九十四才とお聞きしました。

私事では父の戦死後相次ぎ母を亡くしましたので養育してもらった祖母や親戚の人達に心配かけてはと悲しさ寂しさを誰にも話せず両親のことは心の奥にとじ込めてしまいました。ひとりになり父母を思うとノドの奥で涙の音が心に響くようになりました。

雨の海に、ひとりの山に父母のふところ求めて歩いてきました。

五十三才で両親の五十回法要した頃よりこんな思いを自分だけの胸に閉じこめてはいけない。

こんな悲しい思いは私達世代で充分再び繰返される事のないよう自分の立場でできる事で語り継いでゆかねばと思っています。

若い方達の幸せそうなご家庭をみるにつけ、こんな思いをする事なく幼い私達に心を残していったであろう両親がしのばれ胸が熱くなります。

高令化に加えて、社会の激変、災害による昨今の不安等護国神社を取り巻く環境も年々厳しさが増しているようにも思います。

ご英霊の方々の慰霊が永く続けられますよう、そして ご英霊が安らかに鎮まりまして祖国の安泰にお力を下さいますよう祈念し祭文と致します。

 

平成二十四年四月二十二日

三重県遺族会青年部代表

大畑 仁巳


 祭文

本日ここに三重県護国神社春の例大祭が、斎行されるにあたり、戦没者遺族を代表して、謹んで追悼の誠を捧げ、諸霊のご冥福をお祈り申し上げます。

時の流れは速いもので先の大戦から68年余りの歳月が過ぎ去りました、我が国は戦争の混乱の中から立ち上がり幾多の困難を乗り越えて目覚ましい発展をとげ、世界に誇れる豊かな国家になりました。

現在私達が享受している平和と繁栄は戦没者の方々の尊い犠牲の上に築かれたものであり、又御遺族皆様方のたゆみない努力の賜物でございます。

時代も移り人も代ってかつての戦争があった事すら知らない世代が多くなりました、物足りて心貧しく公より個を重んじる世相となりました。

昭和の時代は想像できなかった人口構成となり少子高齢化が進み家族構成や世間の考え方も大きく変化しつつあります。

いかに時代が進んでも変わっていけないものは、日本にはあると思います。

人を愛し国を愛する心の豊かさと家族や親や先祖をうやまう心です。

今後遺族会の活動は、非常に厳しい時代、戦没者の妻は高齢化し遺児や親族にも遺族会の感心がうすれつつあります。

今一度戦後の苦労を思い出し夫や父や兄弟が命を懸けて守った、日本を思い出していただき、遺族会活動に積極的に参加されることを望んでやみません。

本日春の慰霊大祭に込めた私達の願いが今だ、戦争が絶えない世界にも届くことを念願するとともに、戦没者の御霊が安らかな冥福と御遺族皆様の平安を心からお祈りいたしまして祭文と致します。

 

平成二十五年四月二十二日

南牟婁郡遺族会

会長 尾崎 強


 祭辞

本日、三重県護国神社の春季例大祭にあたり、三重県出身の六万余柱の御霊に対して遺族会を代表して、感謝のまことを捧げます。

今月六日と七日、満開だった桜が折からの強い雨風で散り急ぐ姿を見て、ご英霊方が雄々しくも散華されましたお姿にダブらせて、一抹の寂しさを感じたものでございます。

地球よりも重いと言われるあなた方の命を奪ったあの戦いが終って以来、実に六十八年もの歳月が流れ去りました。

あなた方は、お国のためと言うからこそ、職業を捨て、最愛の妻や子、親兄弟と別れて戦場に赴かれたのでした。

過酷な条件の下、国を想い、故郷を想い、家族を案じて若い命を戦場に散華されたご英霊方の無念さを思うとき、いま尚、やりきれない思いでいっぱいでございます。

戦場では、戦友の皆さんがいてくださったとは言え、家族に見取られることもなく、末期の水も汲んであげられなかったからこそ、なおいっそう、あなた方の最期を哀れに思うのであります。

時移ってわが国が、あの廃墟の中より立ち上がって以来、六十八年もの歳月が経過しました。

戦後何年と呼ぶ数字が大きくなればなるほど、その間、戦争がなかったと言う証拠ですから、戦後何年という数字は百年にも二百年にも、いや、無限に戦争の惨禍を繰り返してはなりません。

ところが世間一般には、戦後七十年近くにもなると戦争体験の風化は進み、今、日本の人口の八割以上が戦争を知らない世代となりました。

このような時、二年前に東日本を襲った大震災は、自然災害から、改めて人の命の尊さを思い知らされることとなりました。

世間の人々が、戦争で命を落とされたあなた方のことを忘れかけたとき、自然災害から人の命の尊さを教えられようとは、なんと皮肉なことでしょうか。

あの戦争であなた方肉親を亡くして、命の尊さを身をもって体験した私たち遺族が、戦争とはどんなに痛ましい行為であるかを、後世に伝えて行くことが、ご英霊方のあまりにも尊い犠牲に報いる唯一の道であると信じます。

折から日本はいま、尖閣諸島をめぐる中国との関係、島根県の竹島をめぐる韓国との関係、北方領土をめぐるロシアとの関係をはじめ、北朝鮮の無法極まりない行動など、外交問題が緊張の度を増してきています。

これらの問題を平和的に解決すべく、政府の外交手腕を期待するところであります。

このほか、私たち遺族が最も望んでいるのが、国民の代表たる内閣総理大臣が、靖国神社に参拝いただくことであります。

総理大臣に参拝する意思がないのではなく、参拝できないような雰囲気を作っている取り巻きの意識のほうが問題であります。

内閣総理大臣が靖国神社に参拝しやすいお膳立てをすることこそが肝心なのではないでしょうか。

遺族会の会員は、あなた方の親・妻・兄弟・遺児・甥・姪などで構成されています。

その親御さんたちは、あなた方の無事な帰還を、首を長くして待ち続けてくださいましたが、淡い望みも実現することなく、そのほとんどが他界されました。

杖とも柱とも頼る夫を国に捧げた妻の皆さんは、平均年齢九十歳を超えて、いまご主人が待つところへ旅立たれる方が多い時期であります。

戦後の日本の復興を担ってくださった兄弟の方々も、その多くの皆さんが九十歳前後となって、後継者に道を譲られました。

私たち遺児でさえその多くが七十歳をこえて、ご英霊方の孫にあたる次世代にバトンタッチをする時代となってきました。

ここで私たちが、戦争の悲惨さを後世に伝えてゆかなければ、昭和の時代に日本が、二百数十万人と言う大きな犠牲を払って得たいまの平和が、砂上の楼閣となってしまいます。

孫の世代を広く解釈して、戦没者の孫だけでなく世間のすべての孫の世代とひ孫の世代に対して「戦争がどんなに人々を苦しめ、重荷を背負っていかなければならないか」を伝えていかなければなりません。

遺族同士が集まって、あなた方肉親を亡くした境遇を悲しんでいる時代はとっくに過ぎ去りました。

これからは私たち遺族が、戦争を知らない世代の中に飛び込んで、戦争の悲しさ、苦しさ、愚かさを、自らの体験を通して、伝えて行く役目を果たさなければなりません。

戦後六十八年、この長きに亘ってわが国の平和と繁栄の礎となってくださったご英霊方の犠牲の意義を、風化させることなく後世に伝えるとともに、再び戦争を起こさない、平和な社会を守り続けて行くことこそが、私たち遺族に与えられた使命と信じ、これからも行動して行くことを誓います。

三重県護国神社に鎮まりますご英霊の皆さん、わが郷土三重県の平和と繁栄をいついつまでもお守りください。

ご英霊方の永久に安らかならんことを祈念いたしまして遺族代表の祭辞といたします。

 

平成二十五年四月二十一日

遺族代表

三重郡遺族会長 佐藤孝幸


 祭文

本日ここに、三重県護国神社の春季例大祭が挙行されるに当たり、戦没者遺族を代表し、謹んで哀悼の誠を捧げ、感謝の言葉を申し上げます。

この大祭に皆様と、ともに出席させていただき、今一度、命の尊さと儚さを痛感いたしております。護国神社におやすみいただくご英霊のみなさん、あなた方は、お国のためにと、最愛の妻や子、親兄弟と別れて戦場に赴かれ、国を想い、故郷を想い、家族を案じながら、如何に過酷な状況の下で、しかし、家族に看取られるような、ことはなく、尊い命を若くして戦場に散華され、その無念さを思うとき、その命の儚さを感じ、やり切れない気持ちでいっぱいでございます。儚くも短い命でありながら、ご先祖さまから私たちへ命を繋いでくださいました。私たちに命を繋ぐことだけで、ご自分の命を戦場にて落とされ、その命が、あまりにも儚く感じるとともに、自分たちが今ここに、子や孫へ命を繋ぐことができていることを生として確認できていることに感謝いたし、命の尊さを深く感じております。

戦場での末期の水を汲んであげることはできなかったことを思うとき、なお、いっそうあなた方の最後を哀れに思います、このようなつらい思いは、もう私たちだけで十分です。これで最後にしなければいけません、その思いが今、痛切に込み上げて参ります。

終戦から、はや六十九年が経過し、国民の八十%が戦争を知らない世代となりました。あの苦しかった戦争体験の風化が進み、ともすれば、ご英霊のご貢献とご遺訓が忘れられようとしています。

このような時、安倍総理大臣のご英断により、昨年十二月二十六日に靖国神社を参拝され、ご英霊に感謝の誠を捧げられました。参拝後、総理は、「ご英霊に政権一年の歩みと、二度と再び戦争の惨禍に人々が苦しむ事のない時代を創る決意をお伝えした。」また、「国のために、戦い尊い命を犠牲にされたご英霊に対して哀悼の誠を捧げるとともに尊崇の念を表し、御霊、安らかなれと、ご冥福をお祈りした。」と語られました。

ご英霊の皆さんもさぞかし満足し、お慶びをされていることと思います。私達遺族は今後も内閣総理大臣・閣僚の靖国神社への参拝を続けていただけるよう環境づくりに一層努めていかなければなりません。

また、奇しくも四年に一度開催されるオリンピックが二〇二〇年に東京で開催されることが決まりました。この東京での開催は、一九六四年の開催に続き二回目であります。昨年九月に、私は、この開催決定を聞き及んだとき、戦後間もない一九六四年の開催のあの日を思い出し、国は、戦後の復興を目指し、私は、母・妹と共に必至で生活を営んでいる中、復興のシンボルとして、また、平和のシンボルとして開催されたことが脳裏に浮かんで参りました。二回目の東京オリンピックを迎えることができることは、戦争がなく平和である証拠であるとも感じます。これから百年、二百年、更に永遠に戦争の惨禍を繰り返してはなりません。この平和のシンボルであるオリンピックが開催されますことは、意義深いことであり、これを機に更なる平和につながることを祈ります。六年後の、この二回目の東京でのオリンピックの開催の日を、先祖から繋いでいただいた、このお与えとしての命がある限り、永遠の平和を祈りながら遺族のみなさんと、ともに迎えたいと思います。

私たちは、ご英霊の尊い犠牲の上に築き上げられた現在の平和と繁栄を享受する中で、命の限り、あの戦争であなた方肉親を亡くして、命の尊さを身をもって体験した私たち遺族が、戦争とはどんなに痛ましい行為であるかということと更なる平和の国へとつながることを、子や孫へまたその子孫へと後世に伝えていくことがご英霊方の尊い犠牲に報いる唯一の道であると信じております。

三重県護国神社に鎮まりますご英霊の皆さん、わが郷土三重県の平和と繁栄を、いついつまでもお守りください。

終わりにあたり、ご英霊方のご冥福をお祈りいたしまして、私たち遺族の上にも、ご加護賜らんことを念じつつ、遺族代表の祭文といたします。

 

平成二十六年四月二十一日

遺族代表

員弁地区遺族会長 佐藤 均


 祭文

本日、ここに三重県護国神社春季慰霊大祭が多くの御来賓各位の御臨席を仰ぎ厳粛に執り行われるにあたり戦没者遺族を代表として敬意と感謝を申し上げ御霊の御前に謹んで哀悼の誠を捧げ祭文を申し上げます。

日本では戦争を知らない世代が人口の七割を占め戦争体験者は少なくなりつつあります。

戦争の悲惨さ愚かさを一番知っている我々戦没者遺族がここで声を大にして世界の恒久平和を訴えていかねばなりません。

昨年十二月二十六日に安倍内閣総理大臣の御英断により七年四ヶ月ぶりに靖国神社に参拝され御英霊に感謝の誠を捧げられました。

信念を貫かれ内外の批判に届することなく、毅然とした態度で参拝されたことに対して深く感謝すると共に御英霊もさぞかしお慶びのことと思うところです。

昨日二十一日二度と再び人々が苦しむことのない時代を創る決意で今後も参拜して頂けるものと信じています。

戦争でかけがえのない肉親を失った私達には今の日本平和と繁栄が戦地で散華された御英霊の尊い犠牲の上にあることを決して忘れることなく英霊を顕彰し次世代へと引き継いでいく責務があります。

平和の尊さを次世代に伝えていく役割を担った唯一の遺族会組織であります。

その為にも後継者の育成が急務であり孫、曾孫の会の組織化を積極的に進めていかなくてはなりません。

私にはあの頃があまりにも幼く全く父の記憶がありませんが戦地に向かう途中母に宛てられた一葉の便りのことを覚えていられるでしょうか。

妻と子供を案じ優しく労わる言葉の数々とあとに残す子供達の行く末を託す切なさを、そして自身が 生きて祖国の土を踏みしめることが出来ないであろうことを切々と綴ったその便りも帰りを待ちわびる家族に届いたのは戦死公報の知らせの後先であったと聞かされております。

いつも心の片隅に残る家族と故郷も只々、安泰の願いで立ち向かった清い心を伝えてくれているように思えてなりません。

万分の一の想いも言葉にならず何卒胸中お察しのうえ安らかにお眠りくださることをお祈り申し上げます。

本日は御来賓の皆様方の御参列のもと慰霊祭を催行して頂き御英霊は申すに及ばず我々遺族にとりましても誠に意義深く感謝の極みであり厚く御礼申し上げます。

この例大祭を通し過去の過ちを再び繰り返さぬよう認識を新たにし努力し更なる平和国家づくりに邁進することをお誓い申し上げます。

結びに御英霊の御冥福をお祈り申し上げますと共に御遺族皆様方の御健勝と御多幸を心より祈念申し上げ祭文と致します。

 

平成二十六年四月二十二日

遺族代表 津市 久世 正勝


 祭文

本日ここに、三重県護国神社春季例大祭が催行されるにあたり、戦没者遺族を代表して謹んで哀悼の誠を捧げ、諸霊のご冥福をお祈り申し上げます。

過ぎし大戦において、祖国の安泰と家族の行く末を案じつつ、戦場に散り、戦禍に倒れ、また戦後の帰国を待ち望みながら、異郷の地において亡くなられた方々に思いを馳せるとき万感胸に迫るものが御座います。

顧みますと、私たち戦没者の遺族は、一家の柱を失い貧しく寂しい時代を過ごしてまいりましたが、どんなにつらいことがあっても、皆様が国の為に生死をかけて戦ってこられたことに比べれば苦労の内に入らず、お互いに遺族同士が励ましあい、助け合い今日まで頑張って参りました。

平和で豊かな国家として発展して参りましたのは、申すまでもなく全国民の懸命な努力の賜物でありますが、何よりも諸英霊の尊い礎の上に築かれたものであることを我々は深く胸に刻み決して忘れてはなりません。

いま日本は、昨年衆議院議員解散総選挙により、自身の経済政策アベノミクスを公約の前面に押し出し、株価の上昇などの成果を訴えて経済問題に争点を集中させました。首相の思惑通り、与党は衆議院の3分の2を維持して勝利すると、召集特別国会で安倍氏を首相に再任、第三次安倍政権が発足しました。

「戦後以来の大改革」「日本をとり戻す」改革断行・経済再生と社会保障改革・集団的自衛権の行使・等の姿勢を打ち出してはいますが、諸問題の解決に取り組み、安定政権を築きあげて欲しいものです。

対外的には、尖閣諸島の中国、竹島の韓国、北方領土のロシア、北朝鮮の無法極まりない行動、直近ではイスラム過激派組織イスラム国の残虐なテロ行為は絶対許せない暴挙あり、これらの問題に対し、平和的に解決すべく政府の外交手腕を期待するところであります。

戦後七十年を迎えた今日、最愛の夫を国に捧げた妻の皆さんは、平均年齢九十歳を超え、ご主人が待つところへ旅立たれる方が多く見られます。戦後の、日本の復興を担って下さった兄弟の方々もその多くは九十歳前後になって参りました。

私達遺児でさえ、その多くが七十歳を超える高齢になって参りました。時代の経過とともに、この長きに亘って、わが国の平和と繁栄の礎となって下さった、ご英霊方の尊い犠牲の上にあることを風化させることなく、後の世代に引き継いでいくことこそが、私達遺族に与えられた使命と信じます。

この七十年の節目に当たり、戦没者皆様の、孫や、ひ孫にあたる若い方々に、戦争の悲惨さ、平和の尊さを伝えるべく、昨年より「新世代の会」への加入発足の準備に係り、各地区ごとに発会式が執り行なわれ、順次体制が整って参りました。既に発会式を済ませスタートを切った地区もあります。今年は県下全域に「新世代の会」が発足しバトンタッチが出来るものと確信しており、ご英霊に約束の使命を果たすことが出来ると喜んでおります。

祖国の永遠の平和と発展とを願い、その尊い命を投げうたれた御英霊たちが、我が日本をお守り下さることを固く信じるとともに、悲惨な戦争の苦悩を身をもって体験した私たち遺族は、この悲しい歴史を二度と繰り返さないことを、ここに固くお誓いいたします。

終わりに、御英霊のご冥福と、ご遺族各位のご多幸とご健勝を心から祈念致しまして慰霊の言葉といたします。

 

平成二十七年四月二十一日

三重県四日市市遺族会代表

坂下 勝


 祭文

本日ここに三重県護国神社、春季例大祭が催行されるに当たり戦没者遺族を代表し、謹んでご英霊に哀悼の誠を捧げます。

さて、先の大戦でご英霊が尊い命を落とされてから、時のたつのも早いもので七十年を迎えようとしています。

今、私たちは平和で明るい、豊かな生活を送っていますが、当時の生活は食べ物も無く、今では想像できないくらい苦しい生活でありました。

我が夫を戦地でなくし、女手一人で子供を育て苦難のみちのりを歩まれました妻の方々も九十歳を過ぎご英霊のもとに旅立たれ、生存者も少なくなってきています。

また、あの苦しい時代に生を受け、貧しい環境で育てられた、遺族会の後継者である遺児も七十歳を超え、次の世代へ引き継ぐ時期に来ています。

このことから、ご英霊の孫・曾孫に次代を担なって頂くために、次世代の会の設立を目指し各郡市において取り組んでいます。「どうかご安心下さい。」

しかし、世界各地では、いまだに争いごとが絶えず日々罪のない尊い命が失われ戦後七十年になろうとしている今日でも戦争が終わっていないのが残念でなりません。

時代も移り変わり、人も変わって、かっての戦争を知らない世代が、国民の七割を超え風化しようとしています。

このような現実を目のあたりにするとき、私たち遺族の役割は益々重要になって来ています。

戦没者の孫・曾孫だけでなく、世間すべての世代に対して「戦争がどんなに人々を苦しめ、重荷を背負っていかなければならないか」を伝えていくことが大切であります。

このことが、国の礎となり尊い命を捧げられた、ご英霊の御心に報いることだと信じます。

私たち遺族は力を併せ「平和で豊かな明るい災害のない」郷土創りを目指し、次世代に引き継いで行くことここにお誓いいたします。

終わりにあたり、ご英霊が安らかならんことをお祈り申し上げますと共に、ご参列の皆様方のご健康とご多幸を心からお祈り申し上げ祭文といたします。

 

平成二十七年四月二十二日

遺族代表伊勢市連合遺族会

会長 中村 護


 祭文

本日ここに、三重県護国神社の春季例大祭が挙行されるに当たり、戦没者遺族を代表し謹んで哀悼の誠を捧げ、感謝の言葉を申し上げます。

この大祭に皆様とともに出席させていただき、今一度、命の尊さと儚さを痛感いたしております。護国神社に、おやすみいただくご英霊のみなさん、あなた方は、お国のためにと、最愛の妻や子、親兄弟と別れて戦場に赴かれ、国を想い、故郷を想い、家族を案じながら、如何に過酷な状況の下で、しかし、家族に看取られるようなことはなく、尊い命を若くして戦場に散華され、その無念さを思うとき、その命の儚さを感じ、やり切れない気持ちでいっぱいでございます。儚くも短い命でありながら、ご先祖さまから私たちへ命を繋いでくださいました。私たちに命を繋ぐことだけで、ご自分の命を戦場にて落とされ、その命があまりにも儚く感じるとともに、自分たちが今ここに、子や孫へ命を繋ぐことができていることを生として確認できていることに感謝いたし、命の尊さを深く感じております。

戦場の末期の水を汲んであげることはできなかったことを思うとき、なおいっそうあなた方の最後を哀れに思います、このようなつらい思いは、もう私たちだけで十分です。これで最後にしなければいけません、その思いが今、痛切に込み上げて参ります。

終戦から、はや七十一年が経過し、国民の八十%が戦争を知らない世代となりました。あの苦しかった戦争体験の風化が進み、ともすれば、ご英霊のご貢献とご遺訓が忘れられようとしています。

この様な状況のなかでも、私たち遺族は今後も内閣総理大臣・閣僚の靖国神社への参拝を続けていただけるような環境づくりに一層努めていかなければなりません。

また、奇しくも伊勢志摩サミットがこの三重で開催されることは、伊勢神宮を背にいだき自然豊かな神の地が平和である証拠とも感じます。更に、永遠に戦争の惨禍を繰り返してはと広島の原爆ドームを訪問される各国首脳の方々も意義深いことであり、これを機に更なる平和に繋がることを祈ります。

私たちは、ご英霊の尊い犠牲の上に築き上げられた現在の平和と繁栄を享受する中で、命の限りあの戦争であなた方肉親を亡くして、命の尊さを身をもって体験した私たち遺族が、戦争とはどんなに痛ましい行為であるかということと更なる平和の国へとつながることを、子や孫へまたその子孫へと後世に伝えていくことがご英霊方の尊い犠牲に報いる唯一の道であると信じております。

三重県護国神社に鎮まりますご英霊の皆さん、わが郷土三重県の平和と繁栄をいついつまでもお守りください。

終わりにあたり、ご英霊方のご冥福をお祈りいたしまして、私たち遺族の上にもご加護賜らんことを念じつつ、遺族代表の祭文といたします。

 

平成二十八年四月二十一日

鈴鹿地区遺族代表 片岡 昌昭


 祭辞

終戦時、七十一年を迎える本日、ここに多くの戦没者ご遺族、ならびに、ご来賓の皆様方のご臨席を賜り、六万柱余の三重県出身の戦没者、そして、ともどもに戦争犠牲者となられた全ての皆様の御霊の前に「遺族会」を代表し、哀悼の誠を捧げます。

先の大戦では祖国の行く末を案じ家族の幸せを願いながら戦陣に散った一人ひとりに、それぞれの人生があり夢があり、愛する家族がありました。

この当然のことを目の当たりにしたとき、私たちは断腸の思いを禁じえません。あなた方の尊い犠牲の上に現在の平和があり、それが戦後日本の原点でもあります。

全ての民族の自決の権利を認め、不戦の誓いを新たにしなければなりません。

わが国ではすでに戦後生まれの世代が人口の八割を超えております。かつての戦争に何の関わり合いもない、私たちの子や孫や、さらには甥や姪にかつての戦争を語り聞かせるとき、「かつての戦争はなんであったか」を必ず解き明かさなければなりません。かの戦争のつらい記憶を手繰り寄せながら、伝承することは地方の遺族会としては、どうしようも無いほど辛く遠い道のりであると思います。

戦後七十年、私たちは、あなた方の犠牲の上に平和を享受してまいりました。

しかしながら、今や世界中がグレーゾーンに入っているといっても過言ではない今日、右傾化しつつある現況を真ん中に引き戻すことこそが私たちの任務ともいえます。

私ごとになるかも知れませんが、私は一昨年末、総理府、日本遺族会のご協力を得て、かつての激戦地フィリピンルソン島へ父親の戦跡を訪ねてまいりました。そして、そこで見聞きしたことは、もう筆舌に尽くせるものではありませんでした。日本から三千キロも離れた異国の地で家族への思いを一身にまといながらの戦没者の思いを、全身に染み込ませての慰霊の旅でした。最後に私たち遺族会はすべての戦没者犠牲者に鎮魂を捧げ、すべての国民が再び戦火にまみえることなく新たな平和の形を創造することをお誓い申し上げて追悼の言葉といたします。とともに辞を別て、このたびの熊本、大分の震災の犠牲になられた皆様に心からのお見舞いを申し上げ遺児、遺族代表の祭辞といたします。

 

平成二十八年四月二十二日

三重県遺族会遺児代表

鳥羽市遺族会会長

坂倉 紀男


葉桜の美しい季節も終わりを迎え、山々に新緑が芽生える好季節を迎えた本日、多数のご来賓並びに遺族の方々のご参列を得て、平成二十九年度春の戦没者慰霊大祭が執り行われますことは、誠に意義深いものがあります。

ここに遺族を代表して謹んで哀悼のことばを申し上げます。

戦後七十二年となり将来の日本の安泰を願いつつ遥か遠い異国の地で尊い命を国に捧げられた御霊を前にして、諸霊の心情が一段と胸に迫り、私達の哀悼の気持ちは更に深く、新たなものがあります。

今なお、世界のあちこちで戦乱やテロが絶えず大切な命が失われております。

また、近隣諸国との領土問題のこじれなど憂慮に耐えない次第です。

将来の日本を支える子ども達が安心して育つ環境や高令者が生きがいを持って暮らせる住み良い平和な郷土を維持していかなければなりません。

戦没者遺族も高令化とともに世代交代が進み、ややもすれば過去が風化されつつあります。

このような中で今の平和の礎となられた英霊のご遺志を後世に伝えていくことが、我々の責務と考えております。

世代が変わっても、御霊をおまつりする気持ちは変わることなく、永久に慰霊は続けていかなければならないと考えております。

戦没者遺族も関係各位の暖かい御加護に感謝申し上げ、そして、多数のご参列の皆様とともに御霊の心やすかれと祈り祭文といたします。

 

平成二十九年四月二十一日

亀山市遺族会

宮﨑 浩一


 祭文

本日ここ三重県護国神社において執り行われます春季大例祭にあたり謹んで祭文を申し上げます。

戦後も七十二年、辛く悲しかった事も忘れて過す日も多くなりました。父の戦死公報後相次ぎ母が亡くなりましたので地元で行われる招魂祭を父の鎮魂の日と決め祖母共参列してきましたが、ご英霊にとりましては、両親、妻の大勢の大人の方に只一人幼い私の姿に後日涙を誘われたと大勢の方より聞かされました。

三才と一才の私達と母を残して戦地に赴く父の気持、南海地震後に流行した腸チフスで幼い二人に心を残したであろう母の気持を子供を持って始めて知りました。

おかげさまで祖母他いっぱいの恩人さんの庇護のもと成長させて頂きましたのも亡き父母が生前の日々の生活の中に思いやりの種を育ててくれたいたと祖母が話してくれました。

いつの頃からかそんな父母の思いを裏切ることのないよう、又、大勢の嬉しかった出会いの方達にいつか私もと心がけてきました。おかげさまで私の思い出話に耳をかたむけてくれる家族に囲まれ、あの辛い日々があったからこそと、当り前の日常がうれしくありがたい日々を送らせて頂いています。

あんなに悲しい戦争がその為に多くの犠牲を払ったにも拘わらず世界の各所で悲しいニュースが聞かれる昨今です。

家族の幸せと祖国の繁栄を信じて礎となられたご英霊のお気持を無にすることなく次の世代に語り継いでゆく事を誓います。

ご英霊の方々が安らかにお鎮り下さいますよう、又、祖国の安泰にお力を下さいますよう祈念し祭文と致します。

 

平成二十九年四月二十二日

三重県遺族会

尾鷲市代表

大畑 仁巳


 祭文

本日ここに、三重県護国神社春季例大祭が斎行されるに当たり、戦没者遺族を代表して、ここに鎮まります御英霊に謹んで哀悼の誠を捧げます。

先の大戦が終結し、今年で七十三年を迎えます。

顧みますれば、御英霊は、先の大戦において、祖国の安泰を願い、家族の幸せを念じつつ戦場に散り、あるいは病魔に侵され、遠い異国の地において、帰らぬ人となられました御英霊を思うと、尽きることのない無念の思いでいっぱいでございます。

衷心より御霊のご冥福をお祈り申し上げます。

遺族会「新世代の会」を代表して、戦没者の孫とし「今、思う事」を申し上げます。

私の祖父は、昭和十九年一月ポナペ島近海で、また私の妻方の祖父は昭和十九年十月西部ニューギニアにて共に戦死したと聞いており、戦争が終わってから七十三年目を迎えます。

祖父を始め、戦争で亡くなられた方たちは、戦場へ行きたくなかったでしょう。若い命を捨てたくはなかったでしょう。痛恨の極みであり、先の戦争が悔やまれてなりません。

今回、遺族会の後継者組織を作っていこうという動きがあり、戦没者の直系(孫)が戦争の悲惨なことを伝えていかないと人々の記憶から戦争が消えてしまう大切な時期に差し掛かっているとの呼びかけがありました。

私は、今まで平和な社会が当たり前のように思い、感じて生活してまいりましたが、この言葉を聞いたとき、戦争で亡くなった多くの方々の犠牲のうえに今の平和があることを忘れてはいけない。そのためには、微力ながら遺族会の一員として平和を守る運動に参加しようと心に決めたのが事の発端でした。

遺族会「新世代の会」の代表をお引き受けしたこともあり、三重県戦没者追悼式、全国戦没者追悼式に参列する機会を与えていただき、昨年の八月十五日日本武道館で行われた政府主催の「全国戦没者追悼式」に参列させていただきました。

式典は内閣総理大臣の式辞に始まって、天皇皇后両陛下がご臨場になられたときにはピリッとした何とも言えない緊張感にひたりました。大変、貴重な体験をさせていただきました。

今、遺族会の活動を担う大半が戦没者の遺児ですが、その遺児の高齢化により、遺志を継承する機能に黄信号が灯っています。

各ご家庭のご先祖さまである戦没者が、国や郷里の平和に貢献された事実を後世に伝えるためにも、「新世代の会」組織にご協力賜りたく存じます。

いずれは、遺族会も新世代へ繋いでいくのは見えています。その中で、私たちが今日享受している平和と繁栄は礎となられた御英霊の尊い犠牲のうえに立っている事の意義を風化させることなく、又、家族を残し戦場へ出兵された気持ちを忘れることなく、今後も慰霊の行事を継続していくことが、亡くなられた御英霊の方々に対する感謝の気持ちを表す私たちの義務でもあります。

どうかご安心ください。新世代の会は、親会を補佐することはもちろんですが、御英霊の尊い犠牲を風化させることなく継承し、戦争の悲惨さや平和の尊さを永遠に伝えていきます。そのことが、御英霊に報いる「みち」であると肝に銘じております。

最後に、我々戦争を知らない世代が色々な体験を通して御英霊のことを思う機会を与えてくださった皆様に感謝申し上げるとともに、ここに参列いただきました皆様と共に、今一度、御英霊のご冥福と全世界の平和と発展をお祈り申し上げ、謹んで祭文といたします。

 

平成三十年四月二十一日

遺族代表

三重郡遺族会 新世代の会

会長 稲垣 啓二


春爛漫の中、本日ここ三重県護国神社におかれまして春季例大祭を開催されるにあたり謹んで斉文を申し上げます。

先の大戦後、わが国は一応の平和を取り戻し驚異的とも言える復興を手にいたしました。これはひとへに他の国に類をみない日本独自の国体により全国民が一丸となって団結した賜物であると言えるのではないでしょうか。しかしながら現在、世界情勢に目を向けますと、残念ながら世界各地で内乱、対外戦争がくり広げられています。

人類の歴史はまるで戦争と共にあるかのようにさへ思いますが、その煽りを受けて日本は、二度と戦争に巻き込まれてはならない不戦の誓いを反故にするような事態が起きそうな気配さへ感じます。

私達遺族会は戦争の悲惨さを身を持って体験し戦後七十三年間を生き抜いてまいりました。

多くの遺児が後期高齢者となった今、本日ここに改めて反戦の決意を新たにしご英霊のみなさまのご冥福をお祈り申し上げ斉文といたします。

 

平成三十年四月二十二日

三重県遺族会遺児代表 細野基曽一


本日は、多くの来賓ご臨席のもと、護国神社宮司様始め、神職様方のご奉仕により、まず、平成最後の春季慰霊大祭が斉行されるに当り、遺族を代表し、謹んで祭文を申し上げます。

先の大戦が終わりを告げて、今年で七十四年になります。

私は、戦没者の孫であり、戦争については話や資料の上でしかわかりません。

父に聞いたところ、焼夷弾が降り注ぐ中、必死に逃げ、生きた心地がなかったと聞いています。

祖母からは、戦争は悲しい事・苦しい事だけで、苦労の毎日の生活を過ごしたと聞きました。

祖父は、家から出征して行く時に、父のことを心配して、後はしっかり頼むと祖母に託し、戦場に行ったそうです。

祖母は、祖父の無事を祈り、毎日帰りを待ちわびていたのですが、願いは叶わず、ブーゲンビル島で昭和二十年四月一日戦死したと、連絡が入ったそうです。

その後、昭和五十二年に、祖父が戦死した現地へ父が遺骨収集に一ヶ月参加しました。私が十五歳の年でした。

日本は敗戦国となり、激動の時代を迎え、遺族は大変な混乱した時を乗り越え、全国の戦没者遺族が団結して、日本遺族会が結成されました。

三重県遺族も支部として、英霊顕彰を柱に、福祉の向上・遺骨収集・慰霊巡拝等々の活動を行って頂いております。しかし、時代と共に、高齢が進み、後を継承した遺児の皆さんも平均年齢が七十六歳以上になり、今後の事を考え、戦没者の孫達が次の時代の継承者として、新世代の会が結成致しました。

私達は、今日の平和な社会・何不自由なく生活しているのは、当たり前に思っていましたが、多くの方の尊い犠牲の上にあることを決して忘れず、無駄にしてはなりません。

次は私達が、若い世代の人達に、戦争の悲惨さや平和の尊さを伝えて行く事が責務であります。

亡くなられたご英霊の方々に感謝の誠を捧げると共に、尚一層の英霊顕彰に邁進していく事をお誓い申し上げます。

遺族会の将来と、私達の行く末に限りないご加護を賜ります様お願い申し上げ祭文と致します。

ご英霊の皆様、どうか安らかにお眠り下さい。

 

平成三十一年四月二十一日

桑名市遺族代表

新世代の会 水谷 昇


 祭文

平成の御代から、令和の御代に移ろうとする本日ここに、三重県護国神社春季例大祭が多数のご来賓やご遺族のご参列の下盛大に執り行われるにあたり謹んで祭文の奏上をいたします。

先の大戦から七十三年の歳月が流れました。

国の安寧を願い家族を案じながら戦禍に倒れ、再び郷里の土を踏むことなく、遠い異国の地で亡くなられたご英霊の無念さはいかばかりかと案ずるにりあるものがあります。

私の父は昭和二十年六月三十日にフィリピンミンダナオ島にて戦死いたしました。

私が二歳、姉が四歳、そして父に一度も抱かれることなく遺児となった生後四か月の妹が二十四歳の若い母の下に残されました。

三人の幼子を残された母の悲嘆と苦労は、容易く想像できあの戦後の混乱期にただ一筋に私たち姉妹を守り続けてくれた母への感謝と思慕は 今もって尽きることはありません。

父は、私も姉ももの心がつく前に出征しましたので、父との思い出の記憶は全くありませんが父の葬儀の時四歳だった姉は白い装束を着せられて葬列の先頭を泣きじゃくりながら歩いたあの日の悲しい出来事は忘れることはできないと話しています。

また、十数年前に亡くなった母も訳も分からない幼子が喪主を務め、四ヶ月の乳飲み子を自分が抱いている情景は、この世の出来事とは思えず、そこから始まる悲嘆と苦難の道のりにも思いを巡らすことなく、放心状態で佇んでいたと語っておりました。

いま、姉の手元に大日本南牟婁郡木本町の宛名に母と私そして姉の名前のみが書かれた父からの一通のハガキがあります。

トシコ、ヒデコ、みんな無事に暮らしているか。

父さんも元気で奉公している。

母さんに気ままを言わぬようにしなさい。そして姉には、ヒデコを泣かさぬようにしなさい。

お正月になればお前たちの写真を送ってくれ。

ではまた、さようなら。

このハガキはまさに、父の辞世の言葉となり、今となっては父を偲ぶ唯一の証となっています。

戦死の公報が届き、葬儀が終えた後も弟の戦死が信じられない父の姉は、戦地から無事に帰還された同じ部隊の戦友を訪ね歩いた時期がありました。

父は戦禍の静かな時に故郷の話をしながら「俺には二人の娘がいる」と話したそうです。

私はこの話を思い出すたびに遺影の中の父しか知らない妹が今もって不憫でならず、二度と再び妹のような戦争遺児を出さないようにと切に願っています。

戦争を知らない世代が大半を占めるようになってきました。

天皇陛下は昨年十二月、最後となる記者会見の席で「先の大戦で多くの人命が失われまた我が国の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と努力によって築かれたものであることを忘れずに、戦後生まれの人々にも伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終ろうとしていることに安堵しています。」と述べられました。

いま、私たちはこうして平和で豊かな生活を享受できるのも心ならずも戦争で犠牲となったご英霊の皆様のご加護の賜と改めて感謝申しあげると共に、どんな時代になっても私たち遺族が経験した悲しみや平和への熱い思いを後世に伝えていくことをここにお誓い申し上げます。

ご英霊の皆様はこの世に残した私たちが幸せになることを願って居られるに違いないと考えますが、私たち遺族はこの先も幸せになるよう努めてまいりますので私たちの行く末が平和な世の中でありますようお見守りください。

終わりに、先の大戦で亡くなられたご英霊の皆さまのご冥福と世界の恒久平和をお祈りして祭文の奏上といたします。

 

平成三十一年四月二十二日

熊野市遺族会

濱口 英子


三重県護国神社春季例祭

 遺族代表あいさつ・慰霊のことば

 

本日ここに、三重県護国神社春季例祭が厳かに斎行されるに当たり、戦没者遺族を代表し、謹んで慰霊のことばを申し上げます。

時の流れは早いもので、先の大戦が終わりを告げてから78年が過ぎ去ろうとしています。

苛烈を極めた戦いの中で、愛する家族を案じつつも遥か異国の地で、祖国のために殉じられた幾多の方々の心情に思いを馳せるとき、今もなお、尽きることのない悲しみが胸に込み上げて参ります。

世界を見ますれば、未だ争いが絶えない状態でもあり、いつ安堵できるかと心を病む毎日が続いております。

日本は、戦争のない平和な時代として77年が過ぎ、二度とわれわれのような戦没者遺族を出さないために、遺族として、罪のない一般市民まで巻き込まれる戦争の悲惨さと恐怖、平和の尊さ、ありがたさを万世にわたり語り続けて継承していかなければならないと思います。

恒久平和こそ経済・文化発展の基礎であり、今日における平穏な生活が送れますことは戦没者諸霊の尊い犠牲の礎の上に築かれたものであることを忘れず、心に深く刻み、周りの人々の温かい思いやりと諸霊のご加護によるものと改めて感謝申し上げます。

今後も永久に悲しみの歴史を繰り返すことのないよう、次の世代にも伝え、平和のために頑張っていこうと、世界の恒久平和を築くために努力して参りたいと、改めて強く決意するものであります。

私たちも高齢になってきておりますが、健康には十分気を付け、家族はもちろんのこと、地域のためにも頑張っていきたいと思っておりますので、私たちをどうぞ温かく見守っていただきますようお願いいたします。

終わりに、本日参列できたことに感謝をいたし、謹んで戦没者の方々の在りし日をお偲び申し上げ、みたまの安らかならんことをお祈りいたしまして、慰霊のことばといたします。

 

令和五年四月二十一日

遺族代表

桑名市遺族会 副会長 水谷 照男


 祭文

三年越しの新型コロナウイルス感染症の終息のきざしが見られる感のする本日、県下六万余の英霊の御霊の春の大祭が挙行されますことを、遺族の一人として厚く感謝申し上げます。

また本日のお役を頂いていることを光栄であると思っています。

さて、私は本日の祭文に何を訴えれば、六万余の英霊の御霊が安堵されるであろうか。私事の戦後の十年間を読んだところでたかが私事でしかならない。

戦地で苦しみ恐怖心から比べればものの比ではありません。

現在、ロシアがウクライナに進攻している現状を、この一年間テレビを通して観ていますと、まさしく戦争とは、一体何なんだということがよく判るような気がします。

一国の一人の指導者によって運命が左右される様子が、私には鮮明に観えてなりません。

一年程前だったと思いますが、私は真夜中のテレビに釘づけになりました。それは一級の史料と言われている「昭和天皇実録」の編集にあたり、天皇が語り、侍従長が聴き取るシーンが再現ドラマとして写されていたからでした。

その中で天皇は先の大戦について語られ、開戦前の軍部とのやりとりの中で、軍部の強い主張を押し切れなかったと悔いておられた。

時の憲法では大権を持つ天皇がそれを行使しなかった事も悔やんでいたように観えた。

軍部の下剋上であるともとれるかのように聴こえた。この映像の中で下剋上の言葉が三度使われていると観てとれた。真相は実録を読まないと判らないが、機会があれば是非とも一度目にしたい。

先の大戦の開戦前の世情は、すでに報道統制がなされ国民感情もすでに開戦へと振り向けられていた感じが今の私には観える。遺児の平均年齢は八十三歳となった現在、先の大戦の経緯を理解することは酷かもしれませんが、今ではただひたすらに英霊の御霊に心安らかに祈ることは可能です。

また二度と戦争は有ってはならないことを祈ることも可能であるのは言うまでもありません。

 

令和五年四月二十二日

三重県遺族会 遺族会代表 細野基曽一